環境思想の書籍についての筆者の書評が『図書新聞』に掲載されました。以下、ここで書かせていただいた内容の意図について説明ておきたいと思いますが、掲載された本文はnoteの方に発行元の許可を得て転載しておりますのでそちらをご覧ください。

今回書評を書かせていただいた『環境思想入門』(橋本努編、勁草書房、2025年)は、特に2010年以降の環境思想に関する論説を取りあげた意欲的な作品で、私のように環境思想に関わってきた人間にとっては、待ち望んでいたような1冊でもありました。
というのもの、この分野に関心を持っている方の母集団がそもそも小さいため、専門書が世に出てくることがめったにありません。そのうえ、この分野の議論が盛り上がったのは2000年代までで、2010年以降は議論さえも行き詰まり、長らく尻つぼみのような状態が続いていてきたからです。
本書では、各章ごとに特定の思想家(論者)が取りあげられ、この分野がまだまだ健在であることを示そうとされています。執筆者の皆さんもそれぞれに文献を読み込まれていて、この分野に少しでも関心を持ってきた読者にとっては、大きな刺激になる一冊であることは間違いありません。
他方で、以上のことは承知のうえで、私にはどうしても主張しておきたいことがありました。ここではそのことについて改めて書いておきたいと思いますが、この問題は、本書の編集や執筆に関わられた先生方の問題というよりも、より根本的には、日本の人文科学がそのものが陥ってきた積年の問題であるということは先に触れておきたいと思います。
その「病い」が、自身が長年取り組んできた分野において、ある意味では純粋なほど露骨に行われていたため、どうしても書いておきたかったのです。
第一は、本書を執筆された10名以上の先生方のうち、その大半の方が文字通り「文献紹介」で終わってしまっており、それで良いのかということです。
本書では敢えて特定の思想家(論者)にフォーカスすることで、視点を定め、それによってより深い議論を行えるよう工夫がなされています。その点は素晴らしいのですが、ほとんどの方が、その思想家(論者)が何を言っているのかを要約しているだけに留まっているということです。
もちろん執筆者の先生方からすれば、本書の目的はあくまで2010年代以降の最新の学説を日本の人々に紹介することであり、「執筆者自身がその問題をどう考えるのか」ということについては、本書の目的の範囲外ということになるのかと思います。
ですが、本書の帯には堂々と「日本に環境思想を根づかせろ」と掲げられています。そして「日本に環境思想を根づかせたい」という思い自体は私も同じです。だからこそ思うのですが、論説を要約したり、紹介しているだけで、はたして「思想が根づく」ことが本当に可能なのかということです。
――学問では、ある問題に対して誰が何を主張しているのかという知識をより多く蓄えていることが重要であって、そのことについてその人自身がどう考えたのかということはそれほど重要ではない。
環境思想はもとより、日本社会ではこうした考え方が人文科学そのものに広く浸透してきました。
他方で人文科学は「役に立たない」、個人的な趣味の延長であるとの認識が世間にも広く根づいてしまっています。アカデミズムはそれを「世間の無知」だと蔑みますが、そのような認識を広めたのは、他ならない人文科学の側であって、ひいてはこうした姿勢こそが、日本の人文科学を「役に立たない」ものにしてきたのだと私には思えるのです。
しかし実際には、人文科学は「役に立ち」ますし、世の中にとって必要とされている学問であると私は考えます。そしてその理由は、人文科学には、本質的な問いを立て、私たちの内側にある思考や認識、文化や表象、価値観や世界観を問い直していく力が備わっているからです。
”環境思想”で言うのであれば、例えば自然系や社会科学系の方々が問題の分析や解決方法に尽力されているときに、人文科学では、そもそも環境とは何か、環境が問題であるとはいかなることなのか、そしてこの時代に環境と向き合うことにはいかなる意味があるのか、といった問題の設定に関わる部分を徹底的に掘り下げていきます。
私たちが無意識に前提としてきた「ものの見方」を問い直し、世間で何となく共有されている感覚を言語化、可視化し、長期的な視座に立ったうえで、これまでとは異なる本質の所在や「ものの見方」の可能性を世の中に問う。それこそが人文科学の役割であり、またその「ものの見方」を思想と呼ぶなら、それこそが思想を研究することの意義であると私は思うのです。
ある思想家が尊敬されているとして、その理由は、その人物が「誰が何をどう考えたのか」という知識を網羅しているからではありません。そうではなく、あくまでその思想家自身が、まさしく上記の役割を全うし、新しい「ものの見方」を提示しているからではないでしょうか。
だからこそ私が見たいと思うのは、出発点となる思想家の問題提起を受けて、その人自身がその思想=「ものの見方」から何をどう考えたのかということ、そこでいかなる格闘を行ったのかということです。
そしてこのことと関連して、もう一つ、どうしても指摘しておきたいことがありました。それは、本書で取りあげられる思想家のほぼすべてが海外の人物で占められていることです。これでは暗に日本の研究者は30年間何もしてこなかったと自白しているように見えてしまいます。それで良いのかということです。
確かに日本のアカデミズムでは、海外の言説(特に欧米圏)を引いてこないと「学問的でない」とされる風習が長年続いてきました。
ですが、人文科学の潜在力が、本質的な問いを立て、私たちの内側にある思考や認識、文化や表象、価値観や世界観を問いなおしていくことにあるのであれば、その真価は、いかにして新たな思想=「ものの見方」を打ち立てられたのかということにあるのであって、その人物の出自がどこであるとか、書かれた言語が何であるのかということは本来無関係であるはずです。
その意味で言うと、本書では、無意識のうちにそうした悪しき風習が現れています。例えば本書の終盤で「日常美学」を論じた章では斉藤百合子さんという「日本人」が取りあげられています。欧米系の思想家(論者)が取りあげられていくなかで、最後に不意に「日本人」が取りあげられる。ところがこの方は、どうやら日系アメリカ人の方のようで、原典はすべて英語、呼び方も敢えて「Y・サイトウ」と片仮名表記で統一されています。
これを見て、初学者はどう感じるのでしょうか。欧米人でなければ思想家には値せず、日本語で語られた思想には価値はない、それでもサイトウ氏のように、欧米人のコミュニティで広く認められれば、日本人であってもその列に加わることができる――と、執筆者の先生方の意図を超えて、読者にはそのように映るのではないかと危惧します。
私は先に、「日本に環境思想を根づかせたい」と本当に思うのであれば、求められるのは、その人自身が思想家の問題提起=「ものの見方」から何をどう考えたのかということであるはずだと述べました。そしてそのためには、そこで日本人の先達たちがいかなる格闘をしてきたのかということを見せること自体が重要なのではないかとも思うのです。
「・・・そして願うのなら、環境思想を掲げるすべての人々に、環境とは何か、環境が問題であるとはいかなることなのか、そしてこの時代に環境と向き合うことにはいかなる意味があるのかということを、自分自身の言葉で語ってほしい。そうしてはじめて環境思想はこの国で根を張り、魂を備えたものになるはずである。」
実際、この30年間日本の研究者は何もしてこなかったわけではありません。90年代に欧米の環境思想が広く日本に紹介されて以来、当時の日本の先生方が、それを鵜呑みにすることなく自らの言葉で語り直し、説明し直し、独自の「ものの見方」を確立しようと格闘されてきた姿を、少なくとも私は見てきました。
「そもそも環境とは何か?」「環境が問題であるとはいかなることなのか」「この時代に環境と向き合うことにはいかなる意味があるのか」――だからこそ、それらを自分自身の言葉で語っていくことを恐れてはいけないし、忘れてはいけない。そしてその格闘の姿勢を繋いでいくことこそが、「思想を根づかせる」ための最大の原動力なのではないかと、私には思えるのです。




