【論文】ポストヒューマン論における問題領域の射程とその考察――ポストヒューマニズムとトランスヒューマニズムを繋ぐもの

 先日こちらでもご紹介しました、某学会「ポストヒューマン」についての用語説明についての記事ですが、一度ボツになりましたので、内容を発展させて論文にしました(今年中に正式公開される予定です)。

 論文の大枠としては、ポストヒューマン(posthuman)という用語で語られる問題領域をマッピングするということが主眼となるのですが、上記の解説でも書きましたように、どうもこのあたりの界隈では、ポストヒューマニズム――近代的主体/ヒューマニズムの超克を意図する――目線のポストヒューマン論が肥大化しており、もうひとつの源流となるトランスヒューマニズム――生物学的なヒトの意図的な超克を目指す――目線のポストヒューマン論が軽視される傾向にありまして、両者をしっかりとフォローしたマッピングをしたいと考えておりました。

 ここでの整理がどれだけ有効なのかは、まだまだ議論の余地があるかもしれませんが、ポストヒューマン概念は、この先も時代を論じるキーワードとして有用だと思いますので、ここを突破口として更なる議論の展開があることを望んでいます。

 また、本論の最後では、この間論じてきた〈ヒューマニズム〉についても言及しています。

 私が括弧付きで〈ヒューマニズム〉と呼んでいるのは、いわゆる人道主義でも、ポスト・ヒューマニズムが批判しようとしている近代的主体とも異なる、より西洋文明のより根源にある次のようなものです。

 「だが本論が着目したいのは,西洋世界において400年あまりにわたって貫かれてきたひとつの世界観についてである。そしてそこには,人間についてのある強力な信念が含まれていた。すなわち人間は,とりわけ理性の力を通じて,さまざまな拘束から自分自身を解放することができる。そして人間の使命とは,そうした力を駆使することで,理念として構想された「あるべき何ものか」をこの地上に具現化していくことにあるとする強力な信念に他ならない。」

 トランスヒューマニズムを突き動かしているのが、こうした信念であることは想像しやすいでしょうが、問題は、”ヒューマニズム”を批判しているところのポスト・ヒューマニズムもまた、より深いレベルにおいては、この〈ヒューマニズム〉を共有しているということです。 

 この問題は、筆者がこれまで繰り返し論じてきたテーマでもあるのですが、このことは、ポスト・ヒューマニズムに内在するある種の”政治性”を考えてみるとよく分かります。

上柿崇英(2023a)「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の亡霊――「ポストモダン」/「反ヒューマニズム」状況下における「自己決定する主体」の物語について【テキスト版PDF】『総合人間学』、総合人間学会、第17号、 pp.34-63)

 ポスト・ヒューマニズムは、「人間/非人間」の境界線を打破しようとしますが、その動機は決して価値中立的なものではありません。明確に、抑圧をもたらす境界線を解体させ、何ものかの「存在論的な自由」を拡大させるという意図に基づいています。

 つまり古くは奴隷制の解放にはじまり、今日の自己決定や自己実現、多様性に至る思想的な流れの延長にあって、その根底にあるのは、境界線を打破した先にある「普遍的な人間」(=「あるべき人間」)の実現/への到達です(筆者はその最果てにある何ものかを、身体を捨てて「精神体」(=「思念体」)となった「ニンゲン」と表現してきましたが)。

 ポスト・ヒューマニズムは、この論理を拡張して、ついには「人間/非人間」の境界線の打破を試みます。ですがその先にあるのは、自らを規定する一切のものを受けつけず、「存在論的自由」が究極に高まったところにある何ものか、もはや「ニンゲン」ですらない、不定形の、全(すべて)であり虚無でもあるかのごとき奇怪な怪物でしょう。

 そしてその到達点は、結局のところ、「あるべき何ものか」を目指して、生物学的なヒトを意図的に超克しようとするトランスヒューマニズムと少しも変わらない――。

 「〈ヒューマニズム〉とは,言ってみれば人間存在が自らを規定し,拘束しようとするものから自分自身を絶え間なく解放させていくプロジェクトである。」

 この問題こそ、本論の最も重要な問題提起です。そしていま、5年間かけて論じてきた、この〈ヒューマニズム〉についての論説を1冊の本にまとめようとしています。この論文は、そのうちの第1章となるでしょう。

【出版企画】『〈ヒューマニズム〉の彼岸 ――〈自己完結社会〉から、自己決定、「思念体」、反出生主義、環境加速主義の問題まで 』

 以下、目次を掲載しておきます。

ポストヒューマン論における問題領域の射程とその考察――ポストヒューマニズムとトランスヒューマニズムを繋ぐもの

1.はじめに

2.ポストヒューマン論とは何か

(1)ポストヒューマン論の射程
(2)ポストヒューマン論の源流①――トランスヒューマニズム
(3)ポストヒューマン論の源流②――ポストヒューマニズム

3.ポストヒューマン論における問題領域
(1)ポストヒューマン論の射程を図式化する
(2)【A】「現象/社会的現実としてのポストヒューマン論」
(3)【A-1】「実体としての人間の揺らぎ」
(4)【A-2】「準拠点としての人間の揺らぎ」
(5)【B】「思想としてのポストヒューマン論」
(6)【B-1】「トランスヒューマニズム」
(7)【B-2-1】「ポスト・ヒューマニズム」(post-humanism)
(8)【B-2-2】「ポストヒューマン・イズム」(posthuman-ism)

4.おわりに――ポストヒューマニズムとトランスヒューマニズムを繋ぐもの

 以下、冒頭の部分も転載しておきます。

 AI、ロボット、サイボーグ、生命操作など、科学技術の急速な進展とともに、その影響は、いまやわれわれ人間存在のあり方そのものを変容させるにいたっている。
 こうしたなかで、一連の事態をいかに理解することができるのかということをめぐって、近年注目されているのがポストヒューマン(posthuman)という概念である。ポストヒューマンを直訳するなら「人間以後」となる。つまりここには、われわれがすでに“人間の時代”ではなく、「人間以後」の時代を生きている、という問題提起が含まれているのである。

 しかしポストヒューマンとは、いかなる意味において「人間以後」だと言えるのだろうか。またわれわれが「人間以後」の時代へと向かっていくこと、あるいはわれわれ自身が「人間以後」の存在になっていくことの是非については、どのように考えれば良いのだろうか。
 こうした論点についてはさまざまな議論の余地がある。そこで本論ではまず、ポストヒューマン論の射程を広く掌握可能なひとつの「見取り図」を提示することを試みたい。

 具体的には、まずポストヒューマン論を「現象/社会的現実としてのポストヒューマン論」と「思想としてのポストヒューマン論」に区別する。そして前者を、いかなる意味で「人間以後」なのかという観点から、「(生物学的な)実体としての人間の揺らぎ」と「準拠点としての人間の揺らぎ」に区別し、後者を、「人間以後」の時代とどのように向き合うのかという観点から「トランスヒューマニズム」と「ポストヒューマニズム」に区別する。 
 そして最後に「ポストヒューマニズム」を、「ポスト・ヒューマニズム」と読むのか、「ポストヒューマン・イズム」と読むのかで大きく論点が異なる点を踏まえたうえで、ポストヒューマン論の全体像を示すことを試みたい。

 そして本論では、最後に発展的な論点として、ポストヒューマン論の二つの源流とも言えるポストヒューマニズムとトランスヒューマニズムの接点について改めて考察する。手がかりとなるのは批判的に導入される〈ヒューマニズム〉の概念である。この概念を媒介することによって、両者には看過できない重要な接点が明らかになるということを示したい。

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【思考のシード】『〈自己完結社会〉の成立』に描いた人間像と、「少年漫画」の接点について

 先日のゼミで『〈自己完結社会〉の成立』の第8章「〈共同〉の条件とその人間学的基盤」から、「共同のための作法や知恵」について扱いました。

 ここでは、人間存在が他者とともに何かを作り上げていく「共同行為」を念頭に、負担を伴う〈共同〉をどのように受け入れ実践してきたのかということが焦点となります。

 まず私が、このあたりの内容を書くときに意識していたのは、

  • ①「自立した個人」を含む西洋近代世界が理想としてきた人間像とは異なる人間像を描くことを目指す。
     
  • ②濃密な〈共同〉を実践しなければならなかった時代の人々が、どのような心構えや価値観を通じて〈共同〉に向き合おうとしてきたのかを、思考実験を交えながら“知恵”として抽出すること。
     
  • ③現代の私たちに繋がる人々が大切にしてきた価値観や人間観を描き、言語化すること。

 という3点で、ここに友人である増田敬祐さんの影響と、自分自身の経験がありました。
 

 私はもともとサブカル的なものに興味がある人間ですので、映画、ドラマ、小説だけでなく漫画、アニメ、ゲーム、ネット空間における言説など、③を検討するためには、いろいろな作品に描かれる人間観を参照してきました。
 (ただ、作品を観たり読んだりする時間が余り取れないため、個別的なジャンルにフォーカスするとなると、把握している作品はそれほど多いとは言えません)

 こうした意味では、執筆当時、決して「少年漫画」を突出して意識したわけではなかったのですが、いまから結果的に読み直してみると、「少年漫画」で繰り返し描かれてきた主題と多くの接点があることに自分でも気づかされます

 実際、この本を刊行してすぐ『鬼滅の刃』と出会いましたが、ここにも多くの接点があり、このことを一度エッセイで書いたことがあります。

上柿崇英(2022d)「『鬼滅の刃』に見る、〈救い〉と〈信頼〉の物語」「『鬼滅の刃』に見る、〈救い〉と〈信頼〉の物語」『ニューサポート高校「国語」』、vol.37(2022年春号)、東京書籍)

 

 以上のことから興味深い論点が二つ導出されます。

 ひとつ目は、現在、事実として「少年漫画」に描かれている価値観や人間像と、②に関する、過去の時代に〈共同〉と日々向き合ってきた人々の価値観や人間像を、例えば民俗学の知見などを深めたうえで、改めて比較したときに何が見えるのかということです。

 執筆時、私はこのことを意識していませんでした。そこには本当に連続性があるのか? あるいは実は連続性はほとんどなかったりするのか?

 もしも前者なら、私の試みはズレていなかったとうことになりますが、もしも後者なら、私たちに馴染みの価値観や人間像は、比較的最近の特定の時代に形作られたものだということになります。このことは、一度ちゃんと考えてみる必要があると思います。
 

 ふたつ目は、これも事実として「少年漫画」が海外でも非常に人気があるということをどのように理解するのかというものです。

 前述のように、この本で書かれている価値観や人間像は、①自立した個人(西洋近代思想)とは対立するものです。そしてこの本の内容と「少年漫画」に多くの接点があるとするなら、①自立した個人(西洋近代思想)と「少年漫画」は、論理的に言って、対立することになるはずです。

 そうすると、西洋世界の人々が「少年漫画」に共感するときに、そこで描かれる主題や価値観、人間像は、①自立した個人(西洋近代思想)と相容れないし、さらに言えば現在の多様性や自己決定などとも矛盾することになる可能性が高いのですが、このことをどのように理解しているのかということです。

 可能性の一つは、西洋世界の人々がその矛盾に気づいていないというものです。もしそうなら、「共同のための作法や知恵」として論じてきた価値観、人間観は、①自立した個人(西洋近代思想)を問いなおしていく契機として有用だということになると思います。

 もうひとつの可能性は、西洋世界の人々が「少年漫画」に共感するときに、実は本来の価値観や人間像を、①自立した個人(西洋近代思想)とは矛盾しない別のロジックで理解(誤認)しており、結果的に矛盾が成立していないということです。

 西洋世界では①自立した個人(西洋近代思想)より深い部分で、キリスト教由来の「隣人愛」がセットになっていますので、例えば〈自立した個人〉+「隣人愛」で解釈されている、ということが考えられます。

 このあたりのことについても、機会を見つけて掘り下げて考えてみたいところです。

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【論文】環境思想の過去と未来――“生活”と“自治”への夢と来たるべき環境加速主義の時代について

 環境加速主義(environmental accelerationism)についての論文第三弾を書きました。某学会のシンポジウム論文なのですが、分量を減らせと言われてしまうかもしれませんので、noteの方に調整前の完成稿を載せておきたいと思います

 この間、環境加速主義については、二つの論文を書いてきました。第一弾は丸善出版から刊行された『環境と資源・エネルギーの哲学「人類社会と環境の未来――「地球1個分」問題と環境加速主義の時代」で、ここでは環境加速主義の基本的な論点について取りあげ、特に「グリーン成長主義」や「脱成長主義」と環境加速主義がどのように異なるのかという点を強調しました。

上柿崇英(2024b)「【第1章】人類社会と環境の未来――「地球1個分」問題と環境加速主義の時代」『環境と資源・エネルギーの哲学(未来世界を哲学する【第1巻】)』水野友晴責任編集、丸善出版、pp. 1-44

 続いて第二弾の「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」(投稿論文)では、いわゆる現代思想における加速主義(accelerationism)に焦点をあて、環境加速主義における「加速主義」の意味合いについて検討しました。

上柿崇英(2025b)「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、Vol.19、No.1号、pp. 94-118

 以上を踏まえての今回の第三弾ですが、ここでは「エコ・ユートピア」の衰退から環境加速主義へと向かう環境思想の変遷を念頭に、とりわけ日本の環境思想が何を目指し、何に挫折してきたのかということにひとつの焦点をあててきました。 

 この問題意識は、先日『環境思想入門』への書評で書いたこととも関係するのですが、欧米で成立した環境思想に対して、日本社会ではそれを独自の形で批判的に受け入れ、独自の問題意識を共有しながら展開されてきた経緯がありました。欧米の理論や言説をただ輸入するのではなく、日本の環境思想と呼べるものが確かにそこにあったのです。

 以下、このあたりの要点についてまとめておきたいと思います。

 まず、半世紀にわたって環境思想の中心にあったのは、いかにして私たちが環境危機を克服した「もうひとつの世界」に到達できるのか、という問題意識でした。ここでの「もうひとつの世界」とは、環境問題を決して引き起こすことのない、現在のあり方とは異なるまったく新しい社会の形のことを指しています。

 そしてこの「もうひとつの世界」をめぐっては、人々の間である種の具体的なイメージが共有されていました。それが、本論が「エコ・ユートピア」の想像力と呼んでいるものです。少し長いのですが、引用します。

 「・・・・・・そうしたなかで、人々の間には、次第に「もうひとつの世界」を想起させる緩やかなイメージが共有されるようになっていった。例えばそれはローカルな土地に根ざした地産地消のコミュニティを基盤とする社会かもしれない。そして省エネや省資源、労苦を軽減する技術などは活用したうえで、人々の豊かさの基準を、スピードや効率、モノの所有や消費、貨幣的なサービスの享受ではなく、精神的なもの、例えば自然とのふれあい、健康的でやりがいのある労働、地域社会における相互扶助 (ケア) 、レクリエーション、創造的な活動といったものに置くような社会かもしれない。・・・・・・」

 「・・・・・・そうした社会は、確かに利便性では今日の社会に劣るだろう。しかしスピードや競争にまみれた現在のライフスタイルを思えば、それよりはるかに人間らしく、人々を幸福にするとも言える。ひとつひとつの実践は心許ないかもしれないが、それらはやがて訪れるはずの大いなる変革のための確かな一歩として連なっていくのである――人々を動かしていたのは、こうした「もうひとつの世界」への確かな想像力であった。本論では、こうしたイメージのことを「エコ・ユートピア」の想像力と呼ぶことにしよう。

 環境主義やエコロジー思想が全盛期だった時代においては、「環境について考える」ことは、単に個別的な問題を解決するということを意味せず、それを超えて「もうひとつの世界」=「エコ・ユートピア」について考えることを意味していました。

 またゴミの分別だろうと、再生可能エネルギーの推進だろうと、「環境問題と向き合う」ことは、たとえ些細な行動であったとしても、それはいつの日か「もうひとつの世界」=「エコ・ユートピア」へと至るための確かな一歩である、という形で理解されていました。
 環境対策を個人で進めることには、多くの手間やストレスがかかりますが、このような手応えを漠然と感じていたからこそ、それが人々のモチベーションになってきたとも言えるでしょう。

 注目したいのは、「エコ・ユートピア」についてのイメージは、欧米社会でも日本社会でも概ね共有されていたということです。しかし前述したように、日本社会は欧米由来の環境思想に対して、独自の形で応答してきた歴史が存在します。

 では、どこが違ったのでしょうか?

 まず欧米の環境思想は、こうした「エコ・ユートピア」の実現を、分離してしまった人間(人類)と環境(自然)の「和解」という文脈で捉えていました。
 つまり、もともと人間は、自然環境と調和して生きていたものの、何かの要因によって人間が、自然環境から逸脱してしまい、それが環境問題の根本原因にある(人間中心主義)、したがって「もうひとつの世界」=「エコ・ユートピア」の実現とは、この乖離してしまった人間を自然環境と再び調和させることを意味する、という理解の仕方です。
 そしてその際に、特に重視されたのが、環境(自然)を主として人間の脅威から保護したり、それをあるべき原生の状態のまま保存したりすることで共生を図るという方向性でした。

 これに対して日本の環境思想は、「エコ・ユートピア」の実現を、「生活」を取りもどし「自治」を取りもどすという文脈で捉えていました。

 もともと人間は、生身の姿で自然に直接関わり、みずから生活世界を築きあげてきました。豊かな自然を土台にして、そこに豊かな「助け合い」人間関係が築かれます。そしてその「豊かな自然」と「豊かな人間関係」のもとで、環境(自然)に対する畏敬や適切な資源管理が行われ、環境(自然)と調和した社会が築かれていました。

 しかし近代に入り、とりわけ工業化と現代的なライフスタイルの普及が進んでいくと、「豊かな自然」が破壊されると同時に、「豊かな人間関係」もまた破壊されていきました。それによって人間と環境(自然)自体が持っていた豊かな関わりの全体性が分断されていき、それが環境危機の根本原因となっている。
 ここまでは欧米の環境思想と似ているかもしれません。しかしここから若干ニュアンスが変わってきます。

 したがって「もうひとつの世界」=「エコ・ユートピア」の実現とは、第一に、解体された「豊かな自然」と「豊かな人間関係」を新たな形で回復させること、人間(人類)と環境(自然)自体が持っていた豊かな関わりの全体性、すなわち生活世界(=「生活」)を新たな形で取りもどすということを意味している。
 そして第二に、近代化のなかでバラバラになってしまった諸個人が連帯し、行政(国家)や企業(市場経済)とは異なる形で、自らの力によってそうした生活世界を再生産していくあり方(=「自治」)を取りもどしていくということを意味する、といったようにです。


 環境加速主義は、人間社会を環境(自然)に合わせるのではなく、科学技術の力によって環境(自然)を人間社会に合わせていく思想のことを指しますが、環境加速主義は、こうした「エコ・ユートピア」の想像力が衰退し、人々を動かす力を失うことによって台頭してきます。

 注目したいのは、こうした「エコ・ユートピア」の衰退という局面についても、欧米の環境思想と日本の環境思想では、先の文脈の違いから、やや異なる展開をたどったということです。

 例えば「正しい自然保護や、人間の手が入っていない原生自然など厳密には存在していない」「結局人間はどこかで人間中心に生きるしかない」という言説が存在するとき、「人間中心主義の克服」を大義としてきた欧米の環境思想は根幹から揺らいでしまうことになります。

 しかし「生活」を取りもどし「自治」を取りもどすことを大義としてきた日本の環境思想にとっては、たとえこうした言説が出てきたとしても、議論の本質はそこではないため、まったく揺らぐことはありません。

 それでも日本の環境思想には、やはりそれ相応の弱点がありました。それは一言で言ってしまうと、「生活」を取りもどし「自治」を取りもどすというメインテーマが、現代人にとっては別の意味においてハードルが高すぎたということです。

 「・・・・・・確かにこの四半世紀もの間、日本社会においても、事実として、志ある人々によって多くの草の根の実践が積み重ねられてきた (24) 。しかし圧倒的多数の人々にとっては、「自然とのふれあい」も、「コミュニティでの交流」も、遠くから想像して楽しむもの、あるいは日常から離れて一時的な癒しを得るためのものでしかなかった。」

 「社会システムへの依存によって自己完結的な暮らしに慣れ、“自分だけの世界”の勝手気ままさを知ってしまった人々にとって、“生活”や“自治”の理念はあまりに高尚であり、あまりに重たいものであった。そして何より、それをいざ実践しようとも、そのために不可欠となる“共同”を実現するための人間的素養の数々を、人々はすでに枯渇させてしまっていたのである (25) 。」

 こうして欧米の環境思想とは異なる文脈において、やはり日本の環境思想も衰退していくことになります。そして環境加速主義が台頭する時代を迎える・・・ということになるのですが、細かい部分は本文に譲るとして、ここで強調しておきたいのは次の点です。

 まず、環境思想の根幹にあったのは、現代社会における人間の生き方/あり方をめぐって本質的に問うという姿勢であったということ、そしてそこには欧米のやり方に追従せず、この国で培われてきた独自の感性をもとに、独自の環境思想を探究してきた歴史があったということです。

 前述した『環境思想入門』の書評でも、筆者が不満を述べたのは、まさしくこうした日本の環境思想の奮闘を、環境思想関連で研究している人々自身が自覚していない部分があったからです。

 「生活」を取りもどし「自治」を取りもどすという主題は、確かにもう現代の人々の心には響かないかもしれない。それでも「環境とは何か?」「人間とは何か?」「環境問題に向き合うとはどういうことか?」といった本質的な問いと向き合い、一つの答えを出そうとした人々の格闘の歴史は、次世代が新たな思想を求めて格闘する際の確かな手向けとなる。私はそう考えています。

 もちろんプラグマティズムやまちづくりや、合意形成でも良いのです。しかし、そこに「人間や環境についての本質的な問いかけ」が欠けているのであれば、それは「公共政策」や「住民参加型イベント」に過ぎず、それを環境思想と呼ぶ必然性などないでしょう。

 だからこそ、いまでも忘れられないのは、ライトとカッツの『環境プラグマティズム』がはじめて訳出されたとき、その解説のなかで日本の環境思想(環境哲学)が「2週遅れ」の状態にあると述べていると述べられていたことです。
 言うまでもなく、『環境プラグマティズム』自体は、90年代に刊行された優れた思想の書物です。そうではなくて、そこから安易に「2週遅れ」と言ってのけてしまう、日本の学術界に対して私は情けなく思うのです。彼らは何を見ているのだろうか?――と。

 環境加速主義については、もう散々書きましたし、もうこれ以上書くことはありません。
 その意味では、今回書いたラフスケッチを元に、これから日本の環境思想についてもう少し掘り下げて考えてみたいとも思います。ただそれは、単に「○○という思想があった」というものではなくて、ある時代に、ある人々が、何を感じ、何に希望を託そうとしたのか、そしてそれがいかなる形で時代に置き去りにされ、挫折していくのか、という全体像を描かなければならないでしょう。
 

 そして最後にもうひとつ。「エコ・ユートピア」の衰退、といったテーマでお話しすると、どうしても「だから理想を語りすぎるのは良くないのだ」「だから具体的で個別的な問題に目を向けて、臨機応変に考えなければならない」という反応になりがちなのですが、筆者が伝えようとしているのはそうしたメッセージではないということです。
 (むしろその結果が、環境加速主義という「賭け」へと私たちを誘っているということを繰り返し書いてきました)

 言説には、「ビジョンの射程」というものが存在します。つまり、直ちに何をすべきかという射程を「短期的なビジョン」、「短期的なビジョン」が行き当たりばったりにならないよう、数10年先を見越した行動計画となるものを「中期的ビジョン」と呼ぶとするなら、われわれが本質的にいかなる世界を望むのかということを語るのが「長期的なビジョン」と呼べるものです。

 そして思想とは、この「長期的なビジョン」に相当するものであること、また「短期的なビジョン」「中期的なビジョン」「長期的なビジョン」のどれかだけが重要であるということではなく、このどれもが充実している状態こそが言説が最も健全な状態であるということです。

 つまりそもそも思想には、常に現実から離れ、時代に置き去りにされていく弱点があるということ、それでもその弱点を引き受けつつ、私たちは思想を生みだす努力を続けていくしかない。そのことを私は述べたいと思っているのです。

 「・・・・・・そしてそうした“強度のある思想”を求めた先に、もしかするとわれわれは、現代人が単純に想起する意味での自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念では掬いきれない人間的な価値の地平を再び見いだすことができるようになるかもしれない。
 いずれにせよ、環境思想というものに未だ存在意義が残されているとするなら、われわれにできることは、そうしたイデオロギーを絶えず創出していく以外にはないのである。」

以下、目次を掲載しておきます。

環境思想の過去と未来――“生活”と“自治”への夢と来たるべき環境加速主義の時代について

1.はじめに
2.環境思想の誕生と、その日本での受容について
 (1) 環境思想とは何か――環境問題という“思想”について
 (2) 環境主義からエコロジー思想へ――「エコ・ユートピア」の成立
 (3) 環境思想の日本における受容――“生活”と“自治”への夢

3.環境加速主義への道
 (1) 環境思想の終焉
 (2) 環境加速主義の登場
 (3) 環境加速主義の諸特徴
 (4) 環境加速主義という“賭け”
4.おわりに

 以下、冒頭の部分も引用しておきます。

 かつて環境について語ることは、思想について語ることであった。例えばわれわれが自然保護について語るとき、問われていたのは単なる環境の破壊それ自体ではなく、われわれ自身の自然や生命に対する本質的な向きあい方であった。
 同様に、環境問題について考えるということは、単なる個別的な問題の解決ではなく、われわれが再び環境危機を引き起こさないためにはいかなる社会が必要なのか、すなわちわれわれがいかにして現在とは異なる「もうひとつの世界」へ至ることができるのかについて考えることを意味していたのである。

 だが、こうした前提はすでに過去のものになっている。実際、SDGsで語られているのは、先進国が享受してきた経済成長や権利保障の恩恵を限りなく全世界に拡張していくことではないだろうか。あるいは気候変動やプラスチック、メガソーラーなどについてわれわれが語るとき、その目線はどこまでも眼前の課題を解消することに置かれている。
 今日環境について考えるということは、いかにして“現在”を持続/延長させることができるのか、そしてそのための障壁をいかにして除去することができるのかを考えることを意味するようになっているのである。

 本論が問いたいのは、こうした世界観において、環境思想がなお存在する余地は残されているのか、そして残されているとするなら、それはいかなるものになりえるのかということである。すなわち思想なき環境の時代における環境思想の立ち位置とはいかなるものになるのか、そのことについて考察するのが本論の目的である。

 本論ではまず、そもそも“環境思想”とは何だったのかというところから始めよう。そしてその思想が提起してきた問題の所在について振り返り、続いてそれが日本社会にいかなる形で受容されてきたのかについても確認していく。
 そして環境思想の核心が「エコ・ユートピア」とも言うべき「もうひとつの世界」についての想像力にあったということを確認しつつ、瓦解したのはまさしくそうした想像力であったことについて見ていく。
 以来われわれは、「エコ・ユートピア」に代わりうる新たな世界観や物語を、ついに見いだすことができずにいる。そして注目したいのは、こうした思想的な間礫を埋めるような形で、環境加速主義 (environmental accelerationism) とも言うべき新たな潮流が台頭してくる可能性についてである。
 環境加速主義とは、現在の社会経済システムを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を操作、管理、制御し、それによって「地球1個分」という自然環境の限界を超克していこうとする思想のことを指す。われわれは、それこそが21世紀に相応しい新たな環境思想の形であると考えて良いのだろうか。そしてそうではないとするなら、われわれに残された道はどこにあると言えるのだろうか。本論が明らかにしたいのはこうした問題である。

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【書評】『環境思想入門』

 環境思想の書籍についての筆者の書評が『図書新聞』に掲載されました。以下、ここで書かせていただいた内容の意図について説明ておきたいと思いますが、掲載された本文はnoteの方に発行元の許可を得て転載しておりますのでそちらをご覧ください。

 今回書評を書かせていただいた『環境思想入門』(橋本努編、勁草書房、2025年)は、特に2010年以降の環境思想に関する論説を取りあげた意欲的な作品で、私のように環境思想に関わってきた人間にとっては、待ち望んでいたような1冊でもありました。

 というのもの、この分野に関心を持っている方の母集団がそもそも小さいため、専門書が世に出てくることがめったにありません。そのうえ、この分野の議論が盛り上がったのは2000年代までで、2010年以降は議論さえも行き詰まり、長らく尻つぼみのような状態が続いていてきたからです。

 本書では、各章ごとに特定の思想家(論者)が取りあげられ、この分野がまだまだ健在であることを示そうとされています。執筆者の皆さんもそれぞれに文献を読み込まれていて、この分野に少しでも関心を持ってきた読者にとっては、大きな刺激になる一冊であることは間違いありません。


 他方で、以上のことは承知のうえで、私にはどうしても主張しておきたいことがありました。ここではそのことについて改めて書いておきたいと思いますが、この問題は、本書の編集や執筆に関わられた先生方の問題というよりも、より根本的には、日本の人文科学がそのものが陥ってきた積年の問題であるということは先に触れておきたいと思います。

 その「病い」が、自身が長年取り組んできた分野において、ある意味では純粋なほど露骨に行われていたため、どうしても書いておきたかったのです。

 第一は、本書を執筆された10名以上の先生方のうち、その大半の方が文字通り「文献紹介」で終わってしまっており、それで良いのかということです。

 本書では敢えて特定の思想家(論者)にフォーカスすることで、視点を定め、それによってより深い議論を行えるよう工夫がなされています。その点は素晴らしいのですが、ほとんどの方が、その思想家(論者)が何を言っているのかを要約しているだけに留まっているということです。

 もちろん執筆者の先生方からすれば、本書の目的はあくまで2010年代以降の最新の学説を日本の人々に紹介することであり、「執筆者自身がその問題をどう考えるのか」ということについては、本書の目的の範囲外ということになるのかと思います。

 ですが、本書の帯には堂々と「日本に環境思想を根づかせろ」と掲げられています。そして「日本に環境思想を根づかせたい」という思い自体は私も同じです。だからこそ思うのですが、論説を要約したり、紹介しているだけで、はたして「思想が根づく」ことが本当に可能なのかということです。

 ――学問では、ある問題に対して誰が何を主張しているのかという知識をより多く蓄えていることが重要であって、そのことについてその人自身がどう考えたのかということはそれほど重要ではない。

 環境思想はもとより、日本社会ではこうした考え方が人文科学そのものに広く浸透してきました。

 他方で人文科学は「役に立たない」、個人的な趣味の延長であるとの認識が世間にも広く根づいてしまっています。アカデミズムはそれを「世間の無知」だと蔑みますが、そのような認識を広めたのは、他ならない人文科学の側であって、ひいてはこうした姿勢こそが、日本の人文科学を「役に立たない」ものにしてきたのだと私には思えるのです。

 しかし実際には、人文科学は「役に立ち」ますし、世の中にとって必要とされている学問であると私は考えます。そしてその理由は、人文科学には、本質的な問いを立て、私たちの内側にある思考や認識、文化や表象、価値観や世界観を問い直していく力が備わっているからです。

 ”環境思想”で言うのであれば、例えば自然系や社会科学系の方々が問題の分析や解決方法に尽力されているときに、人文科学では、そもそも環境とは何か、環境が問題であるとはいかなることなのか、そしてこの時代に環境と向き合うことにはいかなる意味があるのか、といった問題の設定に関わる部分を徹底的に掘り下げていきます

 私たちが無意識に前提としてきた「ものの見方」を問い直し、世間で何となく共有されている感覚を言語化、可視化し、長期的な視座に立ったうえで、これまでとは異なる本質の所在や「ものの見方」の可能性を世の中に問う。それこそが人文科学の役割であり、またその「ものの見方」を思想と呼ぶなら、それこそが思想を研究することの意義であると私は思うのです。

 ある思想家が尊敬されているとして、その理由は、その人物が「誰が何をどう考えたのか」という知識を網羅しているからではありません。そうではなく、あくまでその思想家自身が、まさしく上記の役割を全うし、新しい「ものの見方」を提示しているからではないでしょうか。

 だからこそ私が見たいと思うのは、出発点となる思想家の問題提起を受けて、その人自身がその思想=「ものの見方」から何をどう考えたのかということ、そこでいかなる格闘を行ったのかということです


 そしてこのことと関連して、もう一つ、どうしても指摘しておきたいことがありました。それは、本書で取りあげられる思想家のほぼすべてが海外の人物で占められていることです。これでは暗に日本の研究者は30年間何もしてこなかったと自白しているように見えてしまいます。それで良いのかということです。

 確かに日本のアカデミズムでは、海外の言説(特に欧米圏)を引いてこないと「学問的でない」とされる風習が長年続いてきました。

 ですが、人文科学の潜在力が、本質的な問いを立て、私たちの内側にある思考や認識、文化や表象、価値観や世界観を問いなおしていくことにあるのであれば、その真価は、いかにして新たな思想=「ものの見方」を打ち立てられたのかということにあるのであって、その人物の出自がどこであるとか、書かれた言語が何であるのかということは本来無関係であるはずです

 その意味で言うと、本書では、無意識のうちにそうした悪しき風習が現れています。例えば本書の終盤で「日常美学」を論じた章では斉藤百合子さんという「日本人」が取りあげられています。欧米系の思想家(論者)が取りあげられていくなかで、最後に不意に「日本人」が取りあげられる。ところがこの方は、どうやら日系アメリカ人の方のようで、原典はすべて英語、呼び方も敢えて「Y・サイトウ」と片仮名表記で統一されています。

 これを見て、初学者はどう感じるのでしょうか。欧米人でなければ思想家には値せず、日本語で語られた思想には価値はない、それでもサイトウ氏のように、欧米人のコミュニティで広く認められれば、日本人であってもその列に加わることができる――と、執筆者の先生方の意図を超えて、読者にはそのように映るのではないかと危惧します。

 私は先に、「日本に環境思想を根づかせたい」と本当に思うのであれば、求められるのは、その人自身が思想家の問題提起=「ものの見方」から何をどう考えたのかということであるはずだと述べました。そしてそのためには、そこで日本人の先達たちがいかなる格闘をしてきたのかということを見せること自体が重要なのではないかとも思うのです

 「・・・そして願うのなら、環境思想を掲げるすべての人々に、環境とは何か、環境が問題であるとはいかなることなのか、そしてこの時代に環境と向き合うことにはいかなる意味があるのかということを、自分自身の言葉で語ってほしい。そうしてはじめて環境思想はこの国で根を張り、魂を備えたものになるはずである。」

 実際、この30年間日本の研究者は何もしてこなかったわけではありません。90年代に欧米の環境思想が広く日本に紹介されて以来、当時の日本の先生方が、それを鵜呑みにすることなく自らの言葉で語り直し、説明し直し、独自の「ものの見方」を確立しようと格闘されてきた姿を、少なくとも私は見てきました。

 「そもそも環境とは何か?」「環境が問題であるとはいかなることなのか」「この時代に環境と向き合うことにはいかなる意味があるのか」――だからこそ、それらを自分自身の言葉で語っていくことを恐れてはいけないし、忘れてはいけない。そしてその格闘の姿勢を繋いでいくことこそが、「思想を根づかせる」ための最大の原動力なのではないかと、私には思えるのです。

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【論文】加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか

 昨年執筆した環境加速主義関連の論文が公開されました。

上柿崇英(2025b)「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、Vol.19、No.1号、pp. 94-118

 今回の主題は、筆者がこれまで環境加速主義(environmental accelerationism)と呼んできた思想が、現代思想としての加速主義(accelerationism)に対してどのような関係にあるのかということについてです。

 ※環境加速主義についてはこれまでも記事を載せてきました。関連記事はこちらをご覧ください。(「環境加速主義」を論じた、はじめての書籍が刊行されました(2024年9月25日 )

 ”環境=加速主義”と表記する以上、環境加速主義と加速主義には密接な関わりがあります。しかし本論で見ていくように、両者には一見すると矛盾するような側面も存在しているため、本論では加速主義とはそもそもいかなる思想であるのかということからはじめ、改めて環境加速主義がいかなる意味において加速主義的だと言えるのかということを論じているわけです。


 ところで、日本の言論空間を見ていると、加速主義という言葉が想起させるのは、いかに社会が出鱈目であっても、落ちるところまで落ちて崩壊にいたったときにこそ、あるいは劇薬のような手段に訴えて、社会を暴走させた破局の先にこそ、私たちはあらたな地平、新たな希望を見いだしうるといった破滅的な志向性です。

 加速主義には、確かにこうしたイメージと符合するような潮流が存在します。しかし加速主義という概念が負っている世界観やメッセージ性はそれだけでありません。

 というよりも、言葉というものは時代や状況によって変化していきますので、注目したいのは、それぞれの時代や状況において、人々がその概念(言葉)を用いて何を想起し、何を語ろうとし、あるいは何を託そうとしているのかということです。
 したがって私たちが何らかの思想潮流を理解しようとするとき、私たちはその概念(言葉)が負っているさまざまな側面を立体的につかみ取っていくことが求められると言えるでしょう。


 加速主義のアイデアのなかで共通しているのは、現状を打破したいという強い危機感とともに、何かの加速によって現状が打破され、それを通じて新たな地平に到達しようという問題意識だと思います。

 そうなると、着眼すべき点は①「そこでの“加速”が何の加速を意味しているのか」②「その加速によって何を打破したいのか」③「その加速の先にどのような未来を見据えているのか」という3つの論点となります。

 この3つの点に注意しながら、最初に加速主義の一般的な定義について考えてみることにしましょう。
 例えば『加速主義読本』(#Accelerate: The Accelerationist Reader, 2014)には、加速主義について以下のように書かれています。

 「加速主義とは政治的異端である。・・・・・・資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、それに抵抗することでも、中断することでも、批判することでもなく、また資本主義が自らの矛盾によって崩壊するのを待つことでもない。唯一のラディカルな応答とは、資本主義の、根を奪い、疎外し、脱コード化する抽象的な諸傾向を加速することである。」

(Mackay and Avanessian 2014:4)

 以上を踏まえると、加速主義の”加速”が意味するところは、第一義において、資本主義(資本制社会)を加速させるというニュアンスであるということがわかります。
 次に加速主義における“加速”の由来とされている、G・ドゥルーズ/とF・ガタリの『アンチ・オイティプス』の記述についても見ておきます。

 「しかし、どのような革命の道があるというのか。それはひとつでも存在するのか。それは、サミール・アミンが第三世界の国々に忠告しているように世界市場から退いて、ファシスト的な「経済的解決」を奇妙にも復活させることなのか。それとも、逆の方向に進むことであるのか。すなわち、市場の(つまり脱コードの運動、脱土地化の運動)の方向にさらにいっそう遠くまで進むことであるのか。じじつ、恐らく、高度に分裂症的な流れの理論や実践からすれば、種々の流れはまだ十分には脱土地化してもいないし、脱コード化してもいないからである。ここでは、進行から身を引くことではなくて、もっと先に進むことが大切なのである。ニーチェがいっていたように、「過程を加速すること」が。じつをいえば、この事態については、われわれはまだ何もみてきたわけではない。」

Deleuze and Guattari 1972:285=ドゥルーズ/ガタリ 1986:287(太字は筆者)

 要するに標準的な理解においては、加速主義とは、資本制社会がさまざまな問題を抱えていることを認めたうえで、それでもなおわれわれは現在主流の社会経済システムをよりいっそう加速させるべきだとする考え方ということになると言えるでしょう。

 また加速主義には、以下のようなイメージもつきまといます。社会主義が目指した革命の理想や改革の実践を含めて、これまで資本制社会を乗り越えるオルタナティブが繰り返し語られきた。しかし資本制社会に代わるような確固とした成功モデルは結局現れなかったし、今後そうしたものが現れてくるという見込みもない。
 M・フィッシャーを通じて知られるようになった有名な一文があります。

 「資本主義の終わりを想像するよりも、世界の終わりを創造する方が容易である」

Fisher 2009:2=フィッシャー 2018:9-10

 ここにはそうした改革の行き詰まりや、オルタナティブを求める運動に対する幻滅と諦めの心情がよく表現されていると言えるでしょう。

 つまり加速主義が第一義に打破したいのは、問題を抱えてもなお変革の方向性が見いだせず、行き詰まっている資本制社会の現状ということになります。そして従来のオルタナティブに向けた戦略が絶望的であるために、いっそのこと資本制社会を行きつくところまで加速させてしまおう。その先にこそ私たちは何らかの「出口」に到達できるのではないか?――これが加速主義のもっともオーソドックスな理解の仕方ということになるわけです。

 では、先に見た「落ちるところまで落ちて崩壊にいたる、社会を暴走させた破局の先にこそ、希望があるといった破滅的な志向性」といったニュアンスはここからきていると言えるのでしょうか。
 実はこのイメージは、後述するN・ランドの思想、加速主義のグループのひとつとなる右派加速主義に由来しています。したがってこのことを理解するためには、加速主義がここからどのよう分化していったのかということを見ておく必要があります。
 

 少し回り道となりますが、前述した『加速主義読本』にいったん立ち返ってみます。
 まず加速主義(accelerationism)という用語については、R・ゼラズニィ(R. Zelazny)というSF作家が『光の王』(Lord of Light, 1967)という作品のなかで使用したのが最初と言われています。そこでは神を称する人々が支配していたテクノロジーを民衆へと解放させようと試みる人々が、加速主義者と呼ばれたようです。しかしこの時点では、上述のような資本制社会の加速というニュアンスはそれほどありません。

 資本制社会の加速というニュアンスで加速主義が用いられるようになるのは、B・ノイズ(B. Noys)による『否定的なるものの持続性』(The persistence of the negative, 2010)が最初であるとされています。

 「これらのテキストはいずれも、著者が極左の潮流によって形成されたことを示しており、それぞれが過激さの点で互いを凌駕しようとしている。特に彼らは、マルクスの「資本主義的生産の真の障壁は資本そのものである」という主張に対し、資本主義を自己に対して転覆させることでこの障壁を突破しなければならないと論じている。これらは「最悪の政治」の異色の変種である。つまり資本主義が自らの解体させる力を生み出すならば、資本主義そのものを急進化させる必要性がある。要するに悪ければ悪いほど良い。この傾向を加速主義と呼べるだろう。

B. Noys (2010) The Persistence of Negative: A Critique of Contemporary Continental Theory, Edinburgh University Press, p.5(強調は筆者)

 ノイズの言う「これらのテキスト」とは、ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』、リオタールの『リビドー経済』、ボードリヤールの『象徴的交換と死』のことです。
 資本制社会が自らを解体させていく力を生みだすとすれば、それは資本制社会をさらに極端に推し進めていったときである――こうした考え方に立つ思想のことを加速主義と定義しているわけです。

 注目したいのは、このノイズの著作の出版イベントも兼ねる形で、2010年にロンドン大学であるシンポジウム行われ、それが契機となる形で加速主義という用語が広く知られるようになったとされている点です。

 このシンポジウムには、前述したN・ランドの著作も取りあげられ、メンバーを見てみると、R・マッカイ(R. Mackay)、M・フィッシャー(M. Fisher)、N・スルニチェク(N. Srnicek)、R・ブラシエ(R. Brassier)、I・グラント(I. Grant)など、2010年代に加速主義の諸潮流を形作っていく重要な人物が数多く参加していることが分かります。
 つまり加速主義は、ここをひとつの起点としながら、2010年代にかけてさまざまな形に分岐していったと考えることができると思います。

(※なおこのあたりの背景については木澤佐登志(2019)『ニック・ランドと新反動主義―― 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』星海社新書も参考になるので取りあげておきましょう)


 さて、加速主義の諸潮流(グループ)として本論が注目しているのは、右派加速主義左派加速主義、そして効果的加速主義の3つになります。(他にも無条件加速主義(unconditional accelerationism, u/acc)――提唱者はV・ガートン(V. Garton)――というものもあるのですが、今回は取りあげていません。)

 ここでは前述した、①「そこでの“加速”が何の加速を意味しているのか」②「その加速によって何を打破したいのか」③「その加速の先にどのような未来を見据えているのか」という3つの論点を意識しながら、それぞれのグループの違いについて考えてみましょう。

 まず右派加速主義(right-accelerationism, r/acc)は、前述したN・ランド(N. Land)の影響を受けた加速主義のことを指しています。
 右派加速主義のいう”加速”には、資本制社会の加速という意味合いもありますが、それよりも目を引くのは、そこで打破すべき現状として、リベラルな価値理念とそれを擁護しようとする人たちの限界が強烈に意識されているという点です。

 リベラルを称する人々は、伝統的に資本制社会がもたらす副作用をより民主的な制度の構築や政府による市場への介入によって克服しようと考えてきました。しかしそうしたアプローチこそがむしろ社会を荒廃させる結果となっている。私たちはむしろ――リベラル派が嫌う――リバタリアンな方向性を徹底化(加速)させて、C・ヤーヴィン(C. Yarvin)の「新官房学」(neocameralism)が描くような「出口」を目指すべきである。これがランドの言い分です。(「新官房学」については、本文で説明していますのでそちらを参照してください)

 ただしこの説明だけでは、こうした主張に共鳴する人々が、加速主義という言葉に何を託そうとしていたのかという点が見えてきません。本文では詳しく取りあげていますが、このことを理解する手がかりは、ロジックの背後にある人々の”心情”にあると考えられるからです。

 例えばリベラルな価値理念を擁護しようとする人々は、その価値理念を少しでも毀損しそうな主張を見かけると、そうした人たちを、しばしば一方的に「悪の側」に仕立て上げたり、無知で軽薄な人々というレッテルを貼ることがあります。
 しかしそうした人々の中には、その人たちなりの「現実問題」に対する実感があって、さまざまな葛藤の結果としてリベラルな価値理念に反発している場合があります。

 それにもかかわらず価値理念に立つ人々、特にエリート層の界隈は、そうした人々から見ると、あたかもその主張が価値理念を毀損するという理由だけでもって、「現実問題」の存在自体をまるごと否定しているように見える。
 そしてどれだけ理念の正しさを啓蒙さられたところで、目の前から「現実問題」が消えてなくなるわけではない。そのためそうした人々は、やがて自分たちが無視された存在であり、理念の絵空事によって不当に貶められていると感じるようになる。こうしてある種の被害者感情のようなものが蓄積されていくことになるのです。

 この心情は、米国でトランプ政権がなぜあれほどの支持を得たのか、また世界全体で問題となっている移民問題が、なぜこれほどの感情的な分断を引き起こすのかという問題とも決して無関係ではないでしょう。

 いずれにせよ、こうして被害者感情とともに追いつめられた人々が、社会のエリート層をはじめとした「主流派」に、あるいは「現実問題」に対処できない価値理念そのものに対して自暴自棄的な反逆へといたる――。
 冒頭で見たような「落ちるところまで落ちて崩壊にいたる先にこそ、あるいは社会を暴走させた破局の先にこそ希望がある」といった破滅的な志向性は、実はこうした右派加速主義特有の心情問題から出てきたものだと筆者は思うのです。


 これに対して左派加速主義(left-accelerationism, l/acc)は、N・スルニチェク(N. Srnicek)とA・ウイリアムズ(A. Williams)の影響を受けた加速主義で、その考え方は右派加速主義とはかなりの違いがあります。

 まず左派加速主義もまた、資本制社会の加速を主張しますが、そこで目を引くのは、未来技術を梃子にした「ポスト労働社会」というユートピアの構想を掲げているという点です。
 左派加速主義が打破したいのは、これまでの左翼運動が「素朴政治」――「プラカード」や「人間の鎖」に象徴されるような草の根の実践――に終始してきたが、それが現実の社会変革にはまったく寄与していないという現状でした。

 そのような「素朴政治」で資本制社会に抵抗するよりも、資本制社会を先に進める(加速)ことで技術革新を進展させること、そして最終的にはAIやロボットによる産業の自動化と、ユニバーサル・ベーシックインカムを組み合わせることで、人々が動労から解放された世界を構築できると彼らは考えるのです。

 ここには右派加速主義にあったようなリベラル派に対する憎悪や自暴自棄的なニュアンスは見られません。重要なのは未来技術への”賭け”であって、資本制社会はそのためにこそ加速されるべきだという考え方です。ここにおいて加速主義の“加速”は、資本制社会の加速よりも、科学技術の加速というニュアンスを強めるようになってきているのです。
 (ちなみに未来技術については右派加速主義も肯定的です。本文でも言及していますが、例えばランドは、生物工学を媒介としたポストヒューマン化によって、人類は人種問題それ自体から解放されると語っています)

 最後に効果的加速主義(effective accelerationism, e/acc)ですが、その中心にある考え方は、例えばAGI(汎用人工知能)のように一部の人々に危険視されている技術であっても、私たちは無条件に技術革新を進めるべきだというものです。

 この概念の提唱者とされるG・ヴェルドン(G. Verdon)によれば、重要なのは、宇宙に内在する広義の意味での「知性」の存在であって、私たちは将来的なAIと人間の融合も含めて、「知性」の求める技術の革新を止めるべきではない。それは宇宙の一部である人間が、「宇宙の意思」にしたがうことでもあると主張しています。

 注目したいのは、この議論が近年のAI論争のなかから出てきたものであること、またここでの“加速”は明確に科学技術の加速を意味しているのであって、資本制社会の加速という主題は背後に退いてしまっているという点です。ここでの議論において資本制社会は、それが科学技術の加速を進めるにあたって最も効率的なイノベーションをもたらす社会制度である、ということ以上の意味を持ちません。

 またV・ブテリン(V. Buterin)の解釈にしたがえば、効果的加速主義の基本的な世界観は「背後には危険、前方にはユートピア」――効果的加速主義が対立する効果的利他主義の「背後には安全、前方にはディストピア」とは反対に――であって、ここには現代社会を捉えるひとつの政治的立場を見ることもできます。

 それは人類社会そのものが、今日戦争や貧困、不平等、気候変動などさまざまな問題を抱え、行き詰まりを見せていることをうけ、それを社会制度の改善や倫理規範の整備など、技術以外の手段によって克服しようと考えるのではなく、AGIを含む科学技術の潜在力こそがそれを打破していくというものです。
 (この考え方は、省エネ/省資源/再生可能エネルギーの普及による気候変動対策を諦め、惑星改造によって気候変動そのものを制御を訴える環境加速主義に通じていことが分かると思います。)

 もっとも効果的加速主義は、これまで見てきた現代思想の文脈とは異なり、テック業界の議論のなかから出てきた加速主義です。その意味では、効果的加速主義は、現代思想の文脈を強く引き継ぐ右派加速主義や左派加速主義とは本来同列に扱えないという指摘もあるかもしれません。ですが、本論ではこれらを敢えて並立して取りあげているのです。

 というのも筆者は、今後加速主義という概念が生き残るとすれば、それはここでの効果的加速主義に近い意味合いで語られていくことになるのではないかと考えているからです。
 前述したように、思想というのは時代や状況によって意味合いが変わってきます。グローバリズムの「正義」が揺らぎ、隠蔽されていた分断が目に見える形で顕在化する時代においては、右派加速主義に見られた破滅的なニュアンスは加速主義として語らるべき必然性を失っていくだろう。また資本制社会の変革という夢を共有できない世代が増えていくにしたがって、加速主義の思想としての血脈は、科学技術の加速というニュアンス、人類の進歩とポストヒューマン的展望へと収斂していくだろう――これが筆者の考えていることなのです。


 さて、加速主義の説明がながくなりましたが、本論では、こうした加速主義の特徴について掘り下げながら、それがいかなる点で環境加速主義(environmental accelerationism)と結びついているのかということを明らかにしていきます。ちなみに環境加速主義とは、以下のように定義される思想のことでした。

 「より端的に述べれば,現在の社会経済システムを基本的には維持したまま,科学技術の力によって地球環境を操作,管理,制御し,それによって「地球1個分」という自然環境の限界を乗り越えていこうとする思想こそが,ここでの環境加速主義である。」

上柿(2025b) pp.94-95

 ここでは一点だけ補足をしておきましょう。それは前述したように、環境加速主義と加速主義の間には、一見すると正反対に見えるような側面が存在するという問題です。例えば筆者は環境加速主義の目標を「より多くの人々が自立、自己決定、自己実現、多様性を享受できる世界を具現化させること」にあると説明していますが、加速主義は一面においてこうしたリベラルな価値理念に対して強い嫌悪感を抱く思想であるように見えるという問題です。

 しかし上記のように加速主義を整理していけば、この矛盾は問題なく解消されることが分かると思います。
 なぜなら前述のように、加速主義の諸潮流のうち、明確に「反リベラル」を掲げているのは右派加速主義のみであること、また右派加速主義の本質を、「現実問題」を無視され続けたことによる被害者感情と、価値理念を盾に自身を抑圧してきた人々に対する反逆の心情にあると理解するなら、本文で詳しく説明しているように、両者は対立するどころか、激しく共鳴するところがあると言えるからです。

 右派加速主義がリベラルな価値理念に対して抱いていていた不満や憤りは、環境加速主義が「エコ・ユートピア」に対して抱いていた不満と憤りときわめて似た構造を持っているのです。

 要するに加速主義の諸潮流の特徴を、オルタナティブを求める運動への幻滅と諦め(出発点)、「現実問題」の無視からくる被害者意識と価値理念への反逆の心情(右派加速主義)、「素朴政治」への批判と未来技術への賭け(左派加速主義)、そして人類の進歩とポストヒューマン的展望(効果的加速主義)と捉えるのであれば、いずれの点からも環境加速主義は、加速主義的な特徴を共有している。それが本論で述べたかったことなのです。

 以下、目次を掲載しておきます。

「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」

1.はじめに

2.環境加速主義とは何か
(1)「地球1個分問題」という対抗軸
(2)環境加速主義の理論的構造と三つの特徴
(3)環境加速主義はなぜ勝利すると言えるのか

3.加速主義と環境加速主義
(1)加速主義の環境論的転回
(2)環境加速主義と右派加速主義
(3)環境加速主義と左派加速主義
(4)環境加速主義と効果的加速主義(e/acc)、防衛/分散化/民主主義/差別化加速主義(d/acc)

4.おわりに

以下、冒頭の部分も引用しておきます。

 環境思想の議論においては、これまで二つの代表的な対抗軸が存在した。すなわち「人間中心か、そうでないか」、そして「半永続的な経済成長を許容するのか、そうでないか」である。
 とはいえそうした議論はすでに過去のものとなりつつある。今日環境思想において問われているのは、むしろわれわれが、この先地球生態系の要求に人間社会をあわせていくのか、あるいは反対に、人間社会の要求に地球生態系を合わせていくのか、という問題だからである。

 本論では、この新たな対抗軸のうち、後者に立つ思想のことを環境加速主義(environmental accelerationism)と呼ぶことにしたい。より端的に述べれば、現在の社会経済システムを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を操作、管理、制御し、それによって「地球1個分」という自然環境の限界を乗り越えていこうとする思想こそが、ここでの環境加速主義である。

 筆者は上柿(2024b)において、この先脱成長主義は敗北し、グリーン成長主義は吸収されるといった形で、この環境加速主義こそが主流の環境思想となっていく可能性について論じた。
 ただし筆者は、環境加速主義が人類にとって“好ましい”思想であるとはまったく考えていない。むしろその試みは非常にリスクの高い賭けであるとさえ考える。
 それでもなおこのように主張するのは、われわれが「地球1個分問題」を克服し、同時に現代的な価値理念である自立、自己決定、自己実現、多様性を全世界に具現化させていくためには、事実上、環境加速主義を選択するほかに手段がないこと、またこの問題が十分に議論されてきたとは言えないためである。

 本論では、この新たな対抗軸のうち、後者に立つ思想のことを環境加速主義(environmental accelerationism)と呼ぶことにしたい。より端的に述べれば、現在の社会経済システムを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を操作、管理、制御し、それによって「地球1個分」という自然環境の限界を乗り越えていこうとする思想こそが、ここでの環境加速主義である。

 筆者は上柿(2024b)において、この先脱成長主義は敗北し、グリーン成長主義は吸収されるといった形で、この環境加速主義こそが主流の環境思想となっていく可能性について論じた。ただし筆者は、環境加速主義が人類にとって“好ましい”思想であるとはまったく考えていない。むしろその試みは非常にリスクの高い賭けであるとさえ考える。
 それでもなおこのように主張するのは、われわれが「地球1個分問題」を克服し、同時に現代的な価値理念である自立、自己決定、自己実現、多様性を全世界に具現化させていくためには、事実上、環境加速主義を選択するほかに手段がないこと、またこの問題が十分に議論されてきたとは言えないためである。

 本稿ではこの問題意識を念頭に、環境加速主義と、現代思想における加速主義(accelerationism)の関係性について整理することを目的とする。
 加速主義とは、2010年代以降に米国で現れたひとつ思想潮流であり、その核心をなしているのは、資本制社会がさまざまな問題を抱えていることを認めたうえで、それでもなおわれわれは現在主流の社会経済システムをよりいっそう加速させるべきだとする考え方である。
 “環境-加速主義”と名づけている以上、両者の間には興味深い接点が存在する。しかし同時にそこには相違点も混在しており、それらの点を明確にしていくことが本稿の課題である。

 本稿では、今日の加速主義を以下の三つの立場に区別する。第一は、N・ランド(N. Land)を中心とした右派加速主義(right-accelerationism、 r/acc)、第二は、右派加速主義への批判から現れたN・スルニチェク/A・ウイリアムズ(N. Srnicek、A. Williams)に代表される左派加速主義(left-accelerationism、 l/acc)、そして第三は、近年のテック業界で見られる効果的加速主義(e/acc)および防衛/分散化/民主主義/差別化加速主義(d/acc)である。本論では、これらの立場がどのような形で環境加速主義と結びつくのかについて検討したい。 

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【文献紹介】『修理する権利: 使いつづける自由へ』

 以前、『メディオーム』の著者として当noteでもご紹介したことがある吉田健彦さんですが、今回、吉田さんが解題を書かれた 『修理する権利: 使いつづける自由へ』が刊行されましたので、こちらでも紹介させていただきます。

『修理する権利: 使いつづける自由へ』 著者:アーロン・パーザナウスキー翻訳:西村 伸泰出版社:青土社装丁:単行本(464ページ)発売日:2025-04-28 ISBN-10:479177695X ISBN-13:978-4791776955


 「修理する権利」とは、今日の「壊れたら買い換え」というモノとの向きあい方、およびそうした向きあい方を強要するシステムを批判し、そこから私たちには、修理をしながら長くモノを使い続ける権利があると主張する考え方のことです。
 以下、上記のウェブサイトから概要を転載します。

 いま、欧米を中心に「修理する権利」を求める立法や運動がひろがっています。「壊れたら買い替え」へ消費者を促す資本主義社会に一石を投じるこの概念/運動は、日本においても重要な契機となるでしょう。このたび刊行された『修理する権利——使いつづける自由へ』は、「修理する権利」をめぐる議論の最前線である米国から届いた、本邦初の決定的入門書です。 そもそも、なぜ修理を「権利」として求める必要があるのか、修理を阻んでいるものはなにか——。当たり前なようでいて、しかし気づけば遠ざかってしまった「修理」という営みを問い直すために、本書に寄せられた吉田健彦氏による解題「修理する権利、あるいは私たちの生を取り戻すための抵抗運動」の一部を限定公開いたします。

吉田健彦「『修理する権利: 使いつづける自由へ』(青土社)」ALL REVIEWS


 吉田さんが書かれているのは同書の「解題」の部分なのですが、こちらも大変読み応えがあります。特に「修理する権利」を単に権利の問題に留めることなく、「修理をする」という行為そのものに含まれる、人間存在論的な原理の側面に対してスポットライトをあてているところが特徴だと思います。

「(何ものかの修理ができないということは、 何も所有していないことを意味し)、それはつまり私たちがそれとともに過ごした時間を、歴史を、記憶を奪われるのを防ぐ手段がないということでもある。」(p.449)

「(修理する権利とは)単なる理念ではなく、直接私たちの生存にかかわり、他の誰でもない固有の生送るために必須の条件なのだ。」(p.452)

「製品が持つ時間遅延させることの意義は・・・ものが時間を持つということは、つまり置き換え不可能な歴史/記憶をそこに刻み込む余裕を持てるということだ。・・・そして固有な歴史/記憶を持つようになった様々な物に囲まれることで、私たち自身もまた、この私の生活を、あるいは生そのものを固有のものへと育てていくことができる。」(p.456)

「(修理によって物が完全に戻ることはない)それでも、汚れ、傷つき、壊れた物を・・・すべてを元には戻せないところで抗い続けることにこそ、修理が持つ本質的な意味がある。だからこそ、抗う時間のなかでのこされていく一つ一つの傷や汚れが、私たちに固有の歴史を与えてくれる。」(p.457)

 

 上記の引用に何かピンと来る方がいらっしゃれば、ぜひ本書を手に取っていただきたいところです。
 また以下は、吉田さんが以前同書の出版記念イベントでお話しされたときの告知情報ですので、関心のある方はご参照ください。

Fab Cafe 【出版記念イベント】修理する権利とそのローカライゼーション

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【講演記録】ポストヒューマン時代が照射する共生・共同の根本問題

 先日、多文化関係学会の先生からお声をかけていただき、年次大会の基調講演をさせていただく機会をいただきました。とてもアットホームな雰囲気で気持ちよくお話しをさせていただき、また普段接しない方々と交流できたことはとても良い体験でした。
 この場を借りて、改めて感謝とお礼を申し上げたいと思います。

 以下は、当日の音声に一部修正を加えたスライドを合成した動画と、その内容をテキスト化したものです。

 前半部分では「ポストヒューマン」=「人間以後」という概念を手がかりに、最近の科学技術と人間存在の揺らぎをめぐる問題について確認し、後半では『〈自己完結社会〉の成立』で論じた「意のままにならない生」〈世界了解〉〈ヒューマニズム〉の問題がポストヒューマン化の進行するこの時代に何を投げかけているのかについて取りあげています。
 よろしければ是非覗いてみてください。

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「ポストヒューマン」とは何か?

 所属している学会との関連で「ポスト・ヒューマン」の用語説明を頼まれたのですが、記事が長くなったので分割することになりました。せっかくですので、分割前の文章をnoteに掲載しました。

「ポスト・ヒューマン」とは何か?

はじめに
・「実体としての人間」の揺らぎ
・「準拠点としての人間」の揺らぎ
・ポストヒューマニズム
・トランス・ヒューマニズム
おわりに

 ポストヒューマン(post-human)とは、直訳すると「人間以後」となりますが、この概念が注目されているのは、近年のAIやロボットや生命操作技術などの進展によって、これまで私たちが「人間」という形で想定してきた枠組みが急速に解体しつつあることが関係しています。
 そうした時代状況を反映する形で、また人間を捉える新たな枠組みを問題にする際に、ポストヒューマンという概念が用いられているのです。

 もっとも、ポストヒューマンという語をめぐっては、論者によっていくつかのニュアンスが錯綜している部分があります。そのため本論では、そのあたりを整理することを目指して、ふたつの軸を導入することにしました。

 第一の軸は、現象/社会的現実としてのポストヒューマンに着目したもので、私たちがポストヒューマンという際に、それがいかなる意味において「人間以後」なのかをめぐって設定されたものです。

 そこでは一方で、生物学的な「ヒト」を含め私たちが「実体としての人間」だと見なしてきた枠組みが揺らぐという意味で「人間以後」と見なす場合と、他方では、人間こそが物事の価値や基準の中心にあるとする「準拠点としての人間」という前提が揺らぐという意味で「人間以後」と見なす場合とがあり、両者を区別することができます。

 ここでは、遺伝子治療、エンハンスメント、BMI、メタバース、アバターなどを前者=「実体としての人間」の揺らぎをめぐる問題として、家族となるAI/ロボット、管理や判断を行うAI、汎用人工知能(AGI)、動物の権利などを後者=「準拠点としての人間」の揺らぎをめぐる問題として扱っていますが、重要なのは着眼点の違いですので、具体的な事例を入れ替えて論じることもできるでしょう。

 次に第二の軸は、ポストヒューマンを現象/社会的現実として捉えるというよりも、思想的にどのように位置づけるているのかという点に着目したものです。特に私たち自身がポストヒューマンな存在になること、あるいは世界がポストヒューマンなものとなっていくことに対して、積極的な意味を付与するかどうかをめぐって設定されます。

 このとき、私たちがポストヒューマンな存在になることに積極的な意味を見いだすグループが、トランスヒューマニズムです。例えばシンギュラリティで有名なカーツワイルや、2023年頃にChatGPTをめぐって論陣を張った効果的加速主義(e/acc)などは、ここに位置づけられます。

 他方でポストヒューマンをめぐる多くの議論は、私たちがポストヒューマンな存在になることを必ずしも推進しているわけではありません。そこで本論では、ポストヒューマンに関する思想的な言説一般のことを、トランスヒューマニズムと区別する形で、ポストヒューマニズムと定義します。

 ただしポストヒューマニズムという言葉には注意が必要です。というのも、これを「ポストヒューマン・イズム」と理解するか、「ポスト・ヒューマニズム」と理解するかでニュアンスが大きく変わってくるからです。

 例えばハラリが『ホモ・デウス』で論じた無用者階級論、あるいは人間の絶滅以後の世界を思想的に論じた場合などは、ポストヒューマンについて論じた言説ではあるものの、それを推進しているわけではないので、ポストヒューマニズム(ポストヒューマン・イズム)の事例として位置づけられます。

 他方でポストヒューマニズムを「ポスト・ヒューマニズム」と理解する場合には、特別な意味が付与されることになります。端的に言うと、カントに代表される「道徳的で理性的な主体」としての人間を批判する思想/言説というニュアンスです。

 こうした意味での「人間の終焉」を哲学的に提示したのはフーコーですが、その系譜から、例えば”主体”そのものを否定したり、人間以外の「何ものか」を”主体”と見なす場合など、「近代的な主体=人間中心主義(ヒューマニズム)」を批判する思想的立場は、この文脈ではすべてポストヒューマニズム(ポスト・ヒューマニズム)として位置づけられます。具体的には、フェミニズムからロボット/AIの権利論、動物の権利論、アクターネットワーク論などがこれにあたります。


 さて、以上が本論の概要なのですが、本論を整理するにあたって改めて感じたことがあります。それは、ポストヒューマンを論じた多くの文献が、上記の整理で言うところの「ポスト・ヒューマニズム」から議論を行っていること、その結果ポストヒューマンが「準拠点としての人間」の揺らぎという視点に偏る形で論じられているように感じるということです。

 なかでも多いのは、フェミニズムの文脈でポストヒューマンを論じたブライドッティの枠組みを出発点とする議論ですが、こうなると、ポストヒューマン論とは「近代的主体なきあとの主体をめぐる問題」となってしまい、議論の射程が大きく狭まってしまいます。

 筆者の考えでは、ポストヒューマンという概念が注目されている最大の理由は、私たちの現実的な問題として、これまで自明視されてきた生物としての「ヒト」の枠組みが解体していっていること、またそれを是が非でも推進すべきだと論陣を張る人々が実際に存在する――しかもそれなりに大きな影響力を持つ形で――ことにあります

 つまり、時代が要請しているのは、むしろ「実体としての人間」が揺らぐという現実をどう考えるのか、またトランスヒューマニズムとどのように向き合っていくのかという問題であるということです。

 もちろん「主体」を考察することで見えてくることはたくさんあります。実際私たちは、「人間ならざる何ものか」に注目することによって、これまでの常識的なものの見方が揺らぎ、これまで自明視してきた世界の姿が違って見えることになるでしょう。そしてその過程で、聞こえていなかった声や、見えていなかった抑圧の姿を見聞きすることになるかもしれません。

 しかしそれはあくまで「目なざし」の問題です。ポストヒューマン時代に問われているのは、より現実的な問題だからです。例えば次の問いについて、皆さんならどのように考えるでしょうか?

――もしもある状況において、AIが人間よりも正確な判断を下せるとしたら、私たちはそれに従うべきだろうか? もしもAIが人間よりも効率的に組織を管理できるとするなら、私たちはそれをAIに任せてしまった方が良いのではないか? 

――もしも創造性を含めて、あらゆる能力においてAIが人間と同等か、あるいは人間以上だとするなら、なお人間が存在する価値はどこにあるのだろうか?

――もしもAIやロボットが人々にとって理想の友人や恋人や家族になってくれるのだとしたら、人間はなお、意のままにならない生身の他者と関わっていくことに意味を見いだしうるのだろうか?

――もしも高度に発達したメタバースを通じて、「なりたい私」=アバターとして充実した生が成立するとき、私たちはなお、望んだわけでもないこの身体に特別な意味を見いだしうるのだろうか?

――もしも精巧で十分に美味しい人工肉が手頃に入手できるとして、それでもなお私たちは、敢えて生身の動物を殺害することに正当性を見いだしうるのだろうか?

 つまりポストヒューマン論にとって重要なのは、ただ「主体」を論じることではなくて、その先にあるもの、つまり現実として現れるだろうポストヒューマンな存在、あるいはポストヒューマンな世界に対して、いかなる意味を与えることができるのかまでを論じることだ思うのです。

 私たちが望むと望まざるとに関わらず、私たちはポストヒューマン化が加速していく時代を生きています。そしてそれを避けることはおそらくできないでしょう。そのことを引き受けたうえで、なおそこで現れる新しい〈人間〉とはいかなる存在なのか? そして翻って私たちは結局「何もの」だったのか? そのことがいま、改めて問われているのだと思うのです。

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「総合知」とは何か?

 これまで総合人間学会という場で考えてきた「中間理論」を含む「総合知」について、このタイミングでまとめておきたいと思っていました。

「総合知」について考える――「総合知」の三つの位相としての「全体知」、「実践知」、「中間理論」について

 動画作成も3本目となり、多少は技術も向上したのではないかと思っています。

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「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史

 以前「持続可能性は何を持続させるのか?」という記事を書かせていただいたAndTechさん刊行の『環境配慮材料』に、新しい記事を書かせていただきました。

上柿崇英(2025a)「「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史」『環境配慮型材料』、AndTech、 vol.12、pp.95-109


 やや奇妙なタイトルかもしれませんが、この記事では、これまで筆者が論じてきた環境哲学の枠組みを土台として、私たちが生きる現代社会の抱えている持続不可能性の問題を、「天空城」の比喩というものを用いて論じています。

 ここで、空高く浮遊する巨大な城のことを想像してみてください。その「天空城」は、周囲を城壁で取り囲まれ、城壁の内側には、整備された農地や庭園とともに、大勢の人間たちが暮らしています――。

 私たち人間は、実は自然生態系=「自然環境」のうえに人工的な環境=「社会環境」をつくりだし、しかもそれを、世代を越えて膨張/蓄積させていくという特殊な性質を備えた存在です。

 人間が創出した「社会環境」は、やがて長い年月の末に巨大な人工物の集積物として発展していきますが、重要なことは、それが化石燃料の使用をひとつのきっかけとして、土台となっていたはずの「自然環境」から分離し、科学技術を用いて、加速度的に膨張/蓄積していくシステムへと変貌していったということです。

 本論ではその様子を、かつて大地に根ざしていたはずの都市が、大地から浮遊した「天空城」へと変貌していく姿として比喩的に論じているわけです

 気候変動を含む多くの問題を抱えた私たちは、言ってみれば浮遊状態に限界を感じながらも、なんとかして現状維持を図ろうとしている「天空城」とよく似た状態にあります。

 そして最も確実な問題解決の方法は、「天空城」を大地へと帰還させることとなるのですが、私たちはその選択をできそうにもありません。

 というのも、SDGsにも体現された、現代の人間的な理想が求める、80億人が富裕国並みの物質的・社会的水準を達成するという方向性は、大地への帰還とは逆の方向性であること、そして大地への帰還を果たすためには、人々には等身大の「助け合い」が求められるものの、すでに私たちは便利で快適で、自己決定が保障された生活に慣れすぎてしまっており、いまさら「助け合い」で生活していける自信も、スキルもないと感じているからです
(この問題について関心のある方は、以下の解説記事をご参照ください)。

 大地への帰還ができそうにもなく、浮遊状態のを何とか延命させようともがき、最後は、なし崩し的に科学技術による強行突破という賭けに打って出ようとしている――それが本論で描きだされる私たちの姿です。

 その”賭け”がもたらす人間の未来を、本論では思考実験的に、「「天空城」の要塞化」「惑星の「天空城」化」という形で描きました。そのいずれかが成功すれば、理論的には環境問題そのものが”撲滅”されることとなるでしょう。
 しかし科学技術がそのような未来を約束してくれる保障などまったくありません。その意味において、その”賭け”は依然として、大きなリスクを伴う賭けであると言えるでしょう。

 
 なお、本論では明記していませんが、実は本論は、宮崎駿監督による『天空の城ラピュタ』(スタジオジブリ、1986)を意識して書かれたものでもあります。

 作中の「ラピュタ王国」は、科学技術の力によって「天空城」を築きあげ、強大な軍事力によって地上を支配し、繁栄したとされています。しかしオープニングでは、原因は明かされないながらも、「ラピュタ王国」が滅び、人々が大地へと還っていく姿が描かれています。

 登場人物であるムスカが「ラピュタは何度でも甦る。それが人類の夢だからだ」と主張するのに対して、シータは「自分にはラピュタが滅んだ理由がよく分かる。人は、土を離れては生きられない」と主張します。この作品が描かれてから40年あまり、作品が訴えかけるメッセージは、いまを生きる私たちにはどのような響きを持って受け止められるでしょうか。

 ちなみに、筆者は本論の最後を次のように締めくくりました。

 そしてこうした現生人類の八方塞がりに頭を悩ませるとき、筆者はふと思うことがある。ネアンデルタール人は、4万年前まで現生人類と共存し、火を使い、集団で狩りを行い、装飾品さえ製作していた。つまり私たちとは別種の存在でありながら、「社会環境」を膨張/蓄積させるサイクルを独自に持っていたのである。もしも彼らが絶滅することなく、いまでも生き延びていたとするなら、はたして彼らはどのような世界を築きあげたのだろうか――と。

上柿崇英(2025a)「「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史」p.108 より

 「天空城」はどこへ?――それは自然生態系=「自然環境」のうえに人工的な環境=「社会環境」をつくりだし、しかもそれを、世代を越えて膨張/蓄積させていくという特殊な性質を備えた存在であるところの、私たち人類の運命、そして未来についての問いにほかならないのです。

※noteの方からも全文を読むことができますので、詳しくはそちらもご参照ください。


 「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史行方

はじめに

1.そもそも環境とはなにか?
(1)生物存在から考える、主体と環境の関係性
(2)環境を創造する生物としての人間存在
(3)人工的な環境としての「社会環境」の構造

2.人類史から見る「社会環境」の変遷史
(1)「社会環境」はいつ成立したのか?
(2)農耕社会の成立が意味したこと
(3)化石燃料社会の成立が意味したこと
(4)「定常状態」から環境問題を考える

3.「天空城」の比喩
(1)環境問題とは何であったのか
(2)「天空城」としての人間社会
(3)「天空城」に与えられた選択肢①――「天空城」の帰還を考える
(4)「天空城」に与えられた選択肢②――「天空城」の浮上策を考える
(5)「天空城」に与えられた選択肢③――「天空城」の要塞化と、惑星の「天空城」化

おわりに――「天空城」はどこへ?

  以下、冒頭の部分について転載しておきます。

 人間が環境を改変し、その結果として環境問題が生じていることはよく知られている。しかしそもそも環境を改変するとは何を意味するのか、またそうした行為を行う人間とはいかなる存在なのか?――ここまで考えている人々は少ないかもしれない。

 例えば想像してみて欲しい。ビーバーが河をせき止めてダムを造り、シャカイハタオリが草木を編んでマンションを建てるように、環境を改変するのは決して人間だけではない。
 またいかなる生物も、何かが引き金となって、ときに生態系のバランスを攪乱させてしまうことがある。要するに、環境を破壊するのは人間だけではないのである。

 それにもかかわらず、人間が行う環境の改変や、人間に由来する生態系の攪乱には、やはり他の生物種が行うものとは異なる側面があるように見える。問題は、その違いとは何かである。
 人間には、人工的な環境それ自体を創出し、しかもそれを次世代へと脈々と継承していく特殊な能力が備わっている。実は今日私たちが環境問題と呼んでいる事態には、この人間固有の性質が深く関わっているのである。
 では人間とは、そもそも環境破壊的な生き物であり、気候変動を含む今日の事態は、そうした人間存在による必然的な結果だということになるのだろうか。そうとも言い切れない。なぜなら、700万年の人類の歩みから見えてくるのは、人間と環境をめぐる関係性の劇的な変容であり、それに伴って私たち自身の姿もまた変容を遂げていくドラマだからである。

 本論では、この環境を改変する人間とはいかなる存在なのかという問いから出発し、700万年に及ぶ人類の歩みから環境問題の起源について考える。とりわけホモ・サピエンスが現れ、農耕社会が成立し、化石燃料社会が成立してきたことの意味を、人間と環境の関係性の文脈から読み解き、そのうえで現在の私たちが置かれた状況について、「天空城」の比喩を用いて環境哲学的に考えてみたい(※1)。
 人類が創出した人工的な「社会環境」は、「自然環境」から分離し、肥大化し、やがて化石燃料を動力とした自己完結型のシステムへと変貌した。それはあたかも「自然環境」から浮遊した「天空城」のごときものであり、私たちに問われているのは、まさしくこの「天空城」をどこへ導いていくのかという問題だからである。
 はたして私たちは、この自己完結した巨大なシステムを再び大地に根づかせようとするのだろうか? それとも何とかしてそのシステムの浮遊状態を持続させようと奮闘し続けるのだろうか? ――そのことが問われているのである。

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