昨年執筆した環境加速主義関連の論文が公開されました。
上柿崇英(2025b)「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、Vol.19、No.1号、pp. 94-118
今回の主題は、筆者がこれまで環境加速主義(environmental accelerationism)と呼んできた思想が、現代思想としての加速主義(accelerationism)に対してどのような関係にあるのかということについてです。
※環境加速主義についてはこれまでも記事を載せてきました。関連記事はこちらをご覧ください。(「環境加速主義」を論じた、はじめての書籍が刊行されました(2024年9月25日 ))
”環境=加速主義”と表記する以上、環境加速主義と加速主義には密接な関わりがあります。しかし本論で見ていくように、両者には一見すると矛盾するような側面も存在しているため、本論では加速主義とはそもそもいかなる思想であるのかということからはじめ、改めて環境加速主義がいかなる意味において加速主義的だと言えるのかということを論じているわけです。
ところで、日本の言論空間を見ていると、加速主義という言葉が想起させるのは、いかに社会が出鱈目であっても、落ちるところまで落ちて崩壊にいたったときにこそ、あるいは劇薬のような手段に訴えて、社会を暴走させた破局の先にこそ、私たちはあらたな地平、新たな希望を見いだしうるといった破滅的な志向性です。
加速主義には、確かにこうしたイメージと符合するような潮流が存在します。しかし加速主義という概念が負っている世界観やメッセージ性はそれだけでありません。
というよりも、言葉というものは時代や状況によって変化していきますので、注目したいのは、それぞれの時代や状況において、人々がその概念(言葉)を用いて何を想起し、何を語ろうとし、あるいは何を託そうとしているのかということです。
したがって私たちが何らかの思想潮流を理解しようとするとき、私たちはその概念(言葉)が負っているさまざまな側面を立体的につかみ取っていくことが求められると言えるでしょう。
加速主義のアイデアのなかで共通しているのは、現状を打破したいという強い危機感とともに、何かの加速によって現状が打破され、それを通じて新たな地平に到達しようという問題意識だと思います。
そうなると、着眼すべき点は①「そこでの“加速”が何の加速を意味しているのか」②「その加速によって何を打破したいのか」③「その加速の先にどのような未来を見据えているのか」という3つの論点となります。
この3つの点に注意しながら、最初に加速主義の一般的な定義について考えてみることにしましょう。
例えば『加速主義読本』(#Accelerate: The Accelerationist Reader, 2014)には、加速主義について以下のように書かれています。
「加速主義とは政治的異端である。・・・・・・資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、それに抵抗することでも、中断することでも、批判することでもなく、また資本主義が自らの矛盾によって崩壊するのを待つことでもない。唯一のラディカルな応答とは、資本主義の、根を奪い、疎外し、脱コード化する抽象的な諸傾向を加速することである。」
(Mackay and Avanessian 2014:4)
以上を踏まえると、加速主義の”加速”が意味するところは、第一義において、資本主義(資本制社会)を加速させるというニュアンスであるということがわかります。
次に加速主義における“加速”の由来とされている、G・ドゥルーズ/とF・ガタリの『アンチ・オイティプス』の記述についても見ておきます。
「しかし、どのような革命の道があるというのか。それはひとつでも存在するのか。それは、サミール・アミンが第三世界の国々に忠告しているように世界市場から退いて、ファシスト的な「経済的解決」を奇妙にも復活させることなのか。それとも、逆の方向に進むことであるのか。すなわち、市場の(つまり脱コードの運動、脱土地化の運動)の方向にさらにいっそう遠くまで進むことであるのか。じじつ、恐らく、高度に分裂症的な流れの理論や実践からすれば、種々の流れはまだ十分には脱土地化してもいないし、脱コード化してもいないからである。ここでは、進行から身を引くことではなくて、もっと先に進むことが大切なのである。ニーチェがいっていたように、「過程を加速すること」が。じつをいえば、この事態については、われわれはまだ何もみてきたわけではない。」
Deleuze and Guattari 1972:285=ドゥルーズ/ガタリ 1986:287(太字は筆者)
要するに標準的な理解においては、加速主義とは、資本制社会がさまざまな問題を抱えていることを認めたうえで、それでもなおわれわれは現在主流の社会経済システムをよりいっそう加速させるべきだとする考え方ということになると言えるでしょう。
また加速主義には、以下のようなイメージもつきまといます。社会主義が目指した革命の理想や改革の実践を含めて、これまで資本制社会を乗り越えるオルタナティブが繰り返し語られきた。しかし資本制社会に代わるような確固とした成功モデルは結局現れなかったし、今後そうしたものが現れてくるという見込みもない。
M・フィッシャーを通じて知られるようになった有名な一文があります。
「資本主義の終わりを想像するよりも、世界の終わりを創造する方が容易である」
Fisher 2009:2=フィッシャー 2018:9-10
ここにはそうした改革の行き詰まりや、オルタナティブを求める運動に対する幻滅と諦めの心情がよく表現されていると言えるでしょう。
つまり加速主義が第一義に打破したいのは、問題を抱えてもなお変革の方向性が見いだせず、行き詰まっている資本制社会の現状ということになります。そして従来のオルタナティブに向けた戦略が絶望的であるために、いっそのこと資本制社会を行きつくところまで加速させてしまおう。その先にこそ私たちは何らかの「出口」に到達できるのではないか?――これが加速主義のもっともオーソドックスな理解の仕方ということになるわけです。
では、先に見た「落ちるところまで落ちて崩壊にいたる、社会を暴走させた破局の先にこそ、希望があるといった破滅的な志向性」といったニュアンスはここからきていると言えるのでしょうか。
実はこのイメージは、後述するN・ランドの思想、加速主義のグループのひとつとなる右派加速主義に由来しています。したがってこのことを理解するためには、加速主義がここからどのよう分化していったのかということを見ておく必要があります。
少し回り道となりますが、前述した『加速主義読本』にいったん立ち返ってみます。
まず加速主義(accelerationism)という用語については、R・ゼラズニィ(R. Zelazny)というSF作家が『光の王』(Lord of Light, 1967)という作品のなかで使用したのが最初と言われています。そこでは神を称する人々が支配していたテクノロジーを民衆へと解放させようと試みる人々が、加速主義者と呼ばれたようです。しかしこの時点では、上述のような資本制社会の加速というニュアンスはそれほどありません。
資本制社会の加速というニュアンスで加速主義が用いられるようになるのは、B・ノイズ(B. Noys)による『否定的なるものの持続性』(The persistence of the negative, 2010)が最初であるとされています。
「これらのテキストはいずれも、著者が極左の潮流によって形成されたことを示しており、それぞれが過激さの点で互いを凌駕しようとしている。特に彼らは、マルクスの「資本主義的生産の真の障壁は資本そのものである」という主張に対し、資本主義を自己に対して転覆させることでこの障壁を突破しなければならないと論じている。これらは「最悪の政治」の異色の変種である。つまり資本主義が自らの解体させる力を生み出すならば、資本主義そのものを急進化させる必要性がある。要するに悪ければ悪いほど良い。この傾向を加速主義と呼べるだろう。」
B. Noys (2010) The Persistence of Negative: A Critique of Contemporary Continental Theory, Edinburgh University Press, p.5(強調は筆者)
ノイズの言う「これらのテキスト」とは、ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』、リオタールの『リビドー経済』、ボードリヤールの『象徴的交換と死』のことです。
資本制社会が自らを解体させていく力を生みだすとすれば、それは資本制社会をさらに極端に推し進めていったときである――こうした考え方に立つ思想のことを加速主義と定義しているわけです。
注目したいのは、このノイズの著作の出版イベントも兼ねる形で、2010年にロンドン大学であるシンポジウム行われ、それが契機となる形で加速主義という用語が広く知られるようになったとされている点です。
このシンポジウムには、前述したN・ランドの著作も取りあげられ、メンバーを見てみると、R・マッカイ(R. Mackay)、M・フィッシャー(M. Fisher)、N・スルニチェク(N. Srnicek)、R・ブラシエ(R. Brassier)、I・グラント(I. Grant)など、2010年代に加速主義の諸潮流を形作っていく重要な人物が数多く参加していることが分かります。
つまり加速主義は、ここをひとつの起点としながら、2010年代にかけてさまざまな形に分岐していったと考えることができると思います。
(※なおこのあたりの背景については木澤佐登志(2019)『ニック・ランドと新反動主義―― 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』星海社新書も参考になるので取りあげておきましょう)
さて、加速主義の諸潮流(グループ)として本論が注目しているのは、右派加速主義、左派加速主義、そして効果的加速主義の3つになります。(他にも無条件加速主義(unconditional accelerationism, u/acc)――提唱者はV・ガートン(V. Garton)――というものもあるのですが、今回は取りあげていません。)
ここでは前述した、①「そこでの“加速”が何の加速を意味しているのか」②「その加速によって何を打破したいのか」③「その加速の先にどのような未来を見据えているのか」という3つの論点を意識しながら、それぞれのグループの違いについて考えてみましょう。
まず右派加速主義(right-accelerationism, r/acc)は、前述したN・ランド(N. Land)の影響を受けた加速主義のことを指しています。
右派加速主義のいう”加速”には、資本制社会の加速という意味合いもありますが、それよりも目を引くのは、そこで打破すべき現状として、リベラルな価値理念とそれを擁護しようとする人たちの限界が強烈に意識されているという点です。
リベラルを称する人々は、伝統的に資本制社会がもたらす副作用をより民主的な制度の構築や政府による市場への介入によって克服しようと考えてきました。しかしそうしたアプローチこそがむしろ社会を荒廃させる結果となっている。私たちはむしろ――リベラル派が嫌う――リバタリアンな方向性を徹底化(加速)させて、C・ヤーヴィン(C. Yarvin)の「新官房学」(neocameralism)が描くような「出口」を目指すべきである。これがランドの言い分です。(「新官房学」については、本文で説明していますのでそちらを参照してください)
ただしこの説明だけでは、こうした主張に共鳴する人々が、加速主義という言葉に何を託そうとしていたのかという点が見えてきません。本文では詳しく取りあげていますが、このことを理解する手がかりは、ロジックの背後にある人々の”心情”にあると考えられるからです。
例えばリベラルな価値理念を擁護しようとする人々は、その価値理念を少しでも毀損しそうな主張を見かけると、そうした人たちを、しばしば一方的に「悪の側」に仕立て上げたり、無知で軽薄な人々というレッテルを貼ることがあります。
しかしそうした人々の中には、その人たちなりの「現実問題」に対する実感があって、さまざまな葛藤の結果としてリベラルな価値理念に反発している場合があります。
それにもかかわらず価値理念に立つ人々、特にエリート層の界隈は、そうした人々から見ると、あたかもその主張が価値理念を毀損するという理由だけでもって、「現実問題」の存在自体をまるごと否定しているように見える。
そしてどれだけ理念の正しさを啓蒙さられたところで、目の前から「現実問題」が消えてなくなるわけではない。そのためそうした人々は、やがて自分たちが無視された存在であり、理念の絵空事によって不当に貶められていると感じるようになる。こうしてある種の被害者感情のようなものが蓄積されていくことになるのです。
この心情は、米国でトランプ政権がなぜあれほどの支持を得たのか、また世界全体で問題となっている移民問題が、なぜこれほどの感情的な分断を引き起こすのかという問題とも決して無関係ではないでしょう。
いずれにせよ、こうして被害者感情とともに追いつめられた人々が、社会のエリート層をはじめとした「主流派」に、あるいは「現実問題」に対処できない価値理念そのものに対して自暴自棄的な反逆へといたる――。
冒頭で見たような「落ちるところまで落ちて崩壊にいたる先にこそ、あるいは社会を暴走させた破局の先にこそ希望がある」といった破滅的な志向性は、実はこうした右派加速主義特有の心情問題から出てきたものだと筆者は思うのです。
これに対して左派加速主義(left-accelerationism, l/acc)は、N・スルニチェク(N. Srnicek)とA・ウイリアムズ(A. Williams)の影響を受けた加速主義で、その考え方は右派加速主義とはかなりの違いがあります。
まず左派加速主義もまた、資本制社会の加速を主張しますが、そこで目を引くのは、未来技術を梃子にした「ポスト労働社会」というユートピアの構想を掲げているという点です。
左派加速主義が打破したいのは、これまでの左翼運動が「素朴政治」――「プラカード」や「人間の鎖」に象徴されるような草の根の実践――に終始してきたが、それが現実の社会変革にはまったく寄与していないという現状でした。
そのような「素朴政治」で資本制社会に抵抗するよりも、資本制社会を先に進める(加速)ことで技術革新を進展させること、そして最終的にはAIやロボットによる産業の自動化と、ユニバーサル・ベーシックインカムを組み合わせることで、人々が動労から解放された世界を構築できると彼らは考えるのです。
ここには右派加速主義にあったようなリベラル派に対する憎悪や自暴自棄的なニュアンスは見られません。重要なのは未来技術への”賭け”であって、資本制社会はそのためにこそ加速されるべきだという考え方です。ここにおいて加速主義の“加速”は、資本制社会の加速よりも、科学技術の加速というニュアンスを強めるようになってきているのです。
(ちなみに未来技術については右派加速主義も肯定的です。本文でも言及していますが、例えばランドは、生物工学を媒介としたポストヒューマン化によって、人類は人種問題それ自体から解放されると語っています)
最後に効果的加速主義(effective accelerationism, e/acc)ですが、その中心にある考え方は、例えばAGI(汎用人工知能)のように一部の人々に危険視されている技術であっても、私たちは無条件に技術革新を進めるべきだというものです。
この概念の提唱者とされるG・ヴェルドン(G. Verdon)によれば、重要なのは、宇宙に内在する広義の意味での「知性」の存在であって、私たちは将来的なAIと人間の融合も含めて、「知性」の求める技術の革新を止めるべきではない。それは宇宙の一部である人間が、「宇宙の意思」にしたがうことでもあると主張しています。
注目したいのは、この議論が近年のAI論争のなかから出てきたものであること、またここでの“加速”は明確に科学技術の加速を意味しているのであって、資本制社会の加速という主題は背後に退いてしまっているという点です。ここでの議論において資本制社会は、それが科学技術の加速を進めるにあたって最も効率的なイノベーションをもたらす社会制度である、ということ以上の意味を持ちません。
またV・ブテリン(V. Buterin)の解釈にしたがえば、効果的加速主義の基本的な世界観は「背後には危険、前方にはユートピア」――効果的加速主義が対立する効果的利他主義の「背後には安全、前方にはディストピア」とは反対に――であって、ここには現代社会を捉えるひとつの政治的立場を見ることもできます。
それは人類社会そのものが、今日戦争や貧困、不平等、気候変動などさまざまな問題を抱え、行き詰まりを見せていることをうけ、それを社会制度の改善や倫理規範の整備など、技術以外の手段によって克服しようと考えるのではなく、AGIを含む科学技術の潜在力こそがそれを打破していくというものです。
(この考え方は、省エネ/省資源/再生可能エネルギーの普及による気候変動対策を諦め、惑星改造によって気候変動そのものを制御を訴える環境加速主義に通じていことが分かると思います。)
もっとも効果的加速主義は、これまで見てきた現代思想の文脈とは異なり、テック業界の議論のなかから出てきた加速主義です。その意味では、効果的加速主義は、現代思想の文脈を強く引き継ぐ右派加速主義や左派加速主義とは本来同列に扱えないという指摘もあるかもしれません。ですが、本論ではこれらを敢えて並立して取りあげているのです。
というのも筆者は、今後加速主義という概念が生き残るとすれば、それはここでの効果的加速主義に近い意味合いで語られていくことになるのではないかと考えているからです。
前述したように、思想というのは時代や状況によって意味合いが変わってきます。グローバリズムの「正義」が揺らぎ、隠蔽されていた分断が目に見える形で顕在化する時代においては、右派加速主義に見られた破滅的なニュアンスは加速主義として語らるべき必然性を失っていくだろう。また資本制社会の変革という夢を共有できない世代が増えていくにしたがって、加速主義の思想としての血脈は、科学技術の加速というニュアンス、人類の進歩とポストヒューマン的展望へと収斂していくだろう――これが筆者の考えていることなのです。
さて、加速主義の説明がながくなりましたが、本論では、こうした加速主義の特徴について掘り下げながら、それがいかなる点で環境加速主義(environmental accelerationism)と結びついているのかということを明らかにしていきます。ちなみに環境加速主義とは、以下のように定義される思想のことでした。
「より端的に述べれば,現在の社会経済システムを基本的には維持したまま,科学技術の力によって地球環境を操作,管理,制御し,それによって「地球1個分」という自然環境の限界を乗り越えていこうとする思想こそが,ここでの環境加速主義である。」
上柿(2025b) pp.94-95
ここでは一点だけ補足をしておきましょう。それは前述したように、環境加速主義と加速主義の間には、一見すると正反対に見えるような側面が存在するという問題です。例えば筆者は環境加速主義の目標を「より多くの人々が自立、自己決定、自己実現、多様性を享受できる世界を具現化させること」にあると説明していますが、加速主義は一面においてこうしたリベラルな価値理念に対して強い嫌悪感を抱く思想であるように見えるという問題です。
しかし上記のように加速主義を整理していけば、この矛盾は問題なく解消されることが分かると思います。
なぜなら前述のように、加速主義の諸潮流のうち、明確に「反リベラル」を掲げているのは右派加速主義のみであること、また右派加速主義の本質を、「現実問題」を無視され続けたことによる被害者感情と、価値理念を盾に自身を抑圧してきた人々に対する反逆の心情にあると理解するなら、本文で詳しく説明しているように、両者は対立するどころか、激しく共鳴するところがあると言えるからです。
右派加速主義がリベラルな価値理念に対して抱いていていた不満や憤りは、環境加速主義が「エコ・ユートピア」に対して抱いていた不満と憤りときわめて似た構造を持っているのです。
要するに加速主義の諸潮流の特徴を、オルタナティブを求める運動への幻滅と諦め(出発点)、「現実問題」の無視からくる被害者意識と価値理念への反逆の心情(右派加速主義)、「素朴政治」への批判と未来技術への賭け(左派加速主義)、そして人類の進歩とポストヒューマン的展望(効果的加速主義)と捉えるのであれば、いずれの点からも環境加速主義は、加速主義的な特徴を共有している。それが本論で述べたかったことなのです。
以下、目次を掲載しておきます。
「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」
1.はじめに
2.環境加速主義とは何か
(1)「地球1個分問題」という対抗軸
(2)環境加速主義の理論的構造と三つの特徴
(3)環境加速主義はなぜ勝利すると言えるのか
3.加速主義と環境加速主義
(1)加速主義の環境論的転回
(2)環境加速主義と右派加速主義
(3)環境加速主義と左派加速主義
(4)環境加速主義と効果的加速主義(e/acc)、防衛/分散化/民主主義/差別化加速主義(d/acc)
4.おわりに
以下、冒頭の部分も引用しておきます。
環境思想の議論においては、これまで二つの代表的な対抗軸が存在した。すなわち「人間中心か、そうでないか」、そして「半永続的な経済成長を許容するのか、そうでないか」である。
とはいえそうした議論はすでに過去のものとなりつつある。今日環境思想において問われているのは、むしろわれわれが、この先地球生態系の要求に人間社会をあわせていくのか、あるいは反対に、人間社会の要求に地球生態系を合わせていくのか、という問題だからである。
本論では、この新たな対抗軸のうち、後者に立つ思想のことを環境加速主義(environmental accelerationism)と呼ぶことにしたい。より端的に述べれば、現在の社会経済システムを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を操作、管理、制御し、それによって「地球1個分」という自然環境の限界を乗り越えていこうとする思想こそが、ここでの環境加速主義である。
筆者は上柿(2024b)において、この先脱成長主義は敗北し、グリーン成長主義は吸収されるといった形で、この環境加速主義こそが主流の環境思想となっていく可能性について論じた。
ただし筆者は、環境加速主義が人類にとって“好ましい”思想であるとはまったく考えていない。むしろその試みは非常にリスクの高い賭けであるとさえ考える。
それでもなおこのように主張するのは、われわれが「地球1個分問題」を克服し、同時に現代的な価値理念である自立、自己決定、自己実現、多様性を全世界に具現化させていくためには、事実上、環境加速主義を選択するほかに手段がないこと、またこの問題が十分に議論されてきたとは言えないためである。
本論では、この新たな対抗軸のうち、後者に立つ思想のことを環境加速主義(environmental accelerationism)と呼ぶことにしたい。より端的に述べれば、現在の社会経済システムを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を操作、管理、制御し、それによって「地球1個分」という自然環境の限界を乗り越えていこうとする思想こそが、ここでの環境加速主義である。
筆者は上柿(2024b)において、この先脱成長主義は敗北し、グリーン成長主義は吸収されるといった形で、この環境加速主義こそが主流の環境思想となっていく可能性について論じた。ただし筆者は、環境加速主義が人類にとって“好ましい”思想であるとはまったく考えていない。むしろその試みは非常にリスクの高い賭けであるとさえ考える。
それでもなおこのように主張するのは、われわれが「地球1個分問題」を克服し、同時に現代的な価値理念である自立、自己決定、自己実現、多様性を全世界に具現化させていくためには、事実上、環境加速主義を選択するほかに手段がないこと、またこの問題が十分に議論されてきたとは言えないためである。
本稿ではこの問題意識を念頭に、環境加速主義と、現代思想における加速主義(accelerationism)の関係性について整理することを目的とする。
加速主義とは、2010年代以降に米国で現れたひとつ思想潮流であり、その核心をなしているのは、資本制社会がさまざまな問題を抱えていることを認めたうえで、それでもなおわれわれは現在主流の社会経済システムをよりいっそう加速させるべきだとする考え方である。
“環境-加速主義”と名づけている以上、両者の間には興味深い接点が存在する。しかし同時にそこには相違点も混在しており、それらの点を明確にしていくことが本稿の課題である。
本稿では、今日の加速主義を以下の三つの立場に区別する。第一は、N・ランド(N. Land)を中心とした右派加速主義(right-accelerationism、 r/acc)、第二は、右派加速主義への批判から現れたN・スルニチェク/A・ウイリアムズ(N. Srnicek、A. Williams)に代表される左派加速主義(left-accelerationism、 l/acc)、そして第三は、近年のテック業界で見られる効果的加速主義(e/acc)および防衛/分散化/民主主義/差別化加速主義(d/acc)である。本論では、これらの立場がどのような形で環境加速主義と結びつくのかについて検討したい。