【書評】『環境思想入門』

 環境思想の書籍についての筆者の書評が『図書新聞』に掲載されました。以下、ここで書かせていただいた内容の意図について説明ておきたいと思いますが、掲載された本文はnoteの方に発行元の許可を得て転載しておりますのでそちらをご覧ください。

 今回書評を書かせていただいた『環境思想入門』(橋本努編、勁草書房、2025年)は、特に2010年以降の環境思想に関する論説を取りあげた意欲的な作品で、私のように環境思想に関わってきた人間にとっては、待ち望んでいたような1冊でもありました。

 というのもの、この分野に関心を持っている方の母集団がそもそも小さいため、専門書が世に出てくることがめったにありません。そのうえ、この分野の議論が盛り上がったのは2000年代までで、2010年以降は議論さえも行き詰まり、長らく尻つぼみのような状態が続いていてきたからです。

 本書では、各章ごとに特定の思想家(論者)が取りあげられ、この分野がまだまだ健在であることを示そうとされています。執筆者の皆さんもそれぞれに文献を読み込まれていて、この分野に少しでも関心を持ってきた読者にとっては、大きな刺激になる一冊であることは間違いありません。


 他方で、以上のことは承知のうえで、私にはどうしても主張しておきたいことがありました。ここではそのことについて改めて書いておきたいと思いますが、この問題は、本書の編集や執筆に関わられた先生方の問題というよりも、より根本的には、日本の人文科学がそのものが陥ってきた積年の問題であるということは先に触れておきたいと思います。

 その「病い」が、自身が長年取り組んできた分野において、ある意味では純粋なほど露骨に行われていたため、どうしても書いておきたかったのです。

 第一は、本書を執筆された10名以上の先生方のうち、その大半の方が文字通り「文献紹介」で終わってしまっており、それで良いのかということです。

 本書では敢えて特定の思想家(論者)にフォーカスすることで、視点を定め、それによってより深い議論を行えるよう工夫がなされています。その点は素晴らしいのですが、ほとんどの方が、その思想家(論者)が何を言っているのかを要約しているだけに留まっているということです。

 もちろん執筆者の先生方からすれば、本書の目的はあくまで2010年代以降の最新の学説を日本の人々に紹介することであり、「執筆者自身がその問題をどう考えるのか」ということについては、本書の目的の範囲外ということになるのかと思います。

 ですが、本書の帯には堂々と「日本に環境思想を根づかせろ」と掲げられています。そして「日本に環境思想を根づかせたい」という思い自体は私も同じです。だからこそ思うのですが、論説を要約したり、紹介しているだけで、はたして「思想が根づく」ことが本当に可能なのかということです。

 ――学問では、ある問題に対して誰が何を主張しているのかという知識をより多く蓄えていることが重要であって、そのことについてその人自身がどう考えたのかということはそれほど重要ではない。

 環境思想はもとより、日本社会ではこうした考え方が人文科学そのものに広く浸透してきました。

 他方で人文科学は「役に立たない」、個人的な趣味の延長であるとの認識が世間にも広く根づいてしまっています。アカデミズムはそれを「世間の無知」だと蔑みますが、そのような認識を広めたのは、他ならない人文科学の側であって、ひいてはこうした姿勢こそが、日本の人文科学を「役に立たない」ものにしてきたのだと私には思えるのです。

 しかし実際には、人文科学は「役に立ち」ますし、世の中にとって必要とされている学問であると私は考えます。そしてその理由は、人文科学には、本質的な問いを立て、私たちの内側にある思考や認識、文化や表象、価値観や世界観を問い直していく力が備わっているからです。

 ”環境思想”で言うのであれば、例えば自然系や社会科学系の方々が問題の分析や解決方法に尽力されているときに、人文科学では、そもそも環境とは何か、環境が問題であるとはいかなることなのか、そしてこの時代に環境と向き合うことにはいかなる意味があるのか、といった問題の設定に関わる部分を徹底的に掘り下げていきます

 私たちが無意識に前提としてきた「ものの見方」を問い直し、世間で何となく共有されている感覚を言語化、可視化し、長期的な視座に立ったうえで、これまでとは異なる本質の所在や「ものの見方」の可能性を世の中に問う。それこそが人文科学の役割であり、またその「ものの見方」を思想と呼ぶなら、それこそが思想を研究することの意義であると私は思うのです。

 ある思想家が尊敬されているとして、その理由は、その人物が「誰が何をどう考えたのか」という知識を網羅しているからではありません。そうではなく、あくまでその思想家自身が、まさしく上記の役割を全うし、新しい「ものの見方」を提示しているからではないでしょうか。

 だからこそ私が見たいと思うのは、出発点となる思想家の問題提起を受けて、その人自身がその思想=「ものの見方」から何をどう考えたのかということ、そこでいかなる格闘を行ったのかということです


 そしてこのことと関連して、もう一つ、どうしても指摘しておきたいことがありました。それは、本書で取りあげられる思想家のほぼすべてが海外の人物で占められていることです。これでは暗に日本の研究者は30年間何もしてこなかったと自白しているように見えてしまいます。それで良いのかということです。

 確かに日本のアカデミズムでは、海外の言説(特に欧米圏)を引いてこないと「学問的でない」とされる風習が長年続いてきました。

 ですが、人文科学の潜在力が、本質的な問いを立て、私たちの内側にある思考や認識、文化や表象、価値観や世界観を問いなおしていくことにあるのであれば、その真価は、いかにして新たな思想=「ものの見方」を打ち立てられたのかということにあるのであって、その人物の出自がどこであるとか、書かれた言語が何であるのかということは本来無関係であるはずです

 その意味で言うと、本書では、無意識のうちにそうした悪しき風習が現れています。例えば本書の終盤で「日常美学」を論じた章では斉藤百合子さんという「日本人」が取りあげられています。欧米系の思想家(論者)が取りあげられていくなかで、最後に不意に「日本人」が取りあげられる。ところがこの方は、どうやら日系アメリカ人の方のようで、原典はすべて英語、呼び方も敢えて「Y・サイトウ」と片仮名表記で統一されています。

 これを見て、初学者はどう感じるのでしょうか。欧米人でなければ思想家には値せず、日本語で語られた思想には価値はない、それでもサイトウ氏のように、欧米人のコミュニティで広く認められれば、日本人であってもその列に加わることができる――と、執筆者の先生方の意図を超えて、読者にはそのように映るのではないかと危惧します。

 私は先に、「日本に環境思想を根づかせたい」と本当に思うのであれば、求められるのは、その人自身が思想家の問題提起=「ものの見方」から何をどう考えたのかということであるはずだと述べました。そしてそのためには、そこで日本人の先達たちがいかなる格闘をしてきたのかということを見せること自体が重要なのではないかとも思うのです

 「・・・そして願うのなら、環境思想を掲げるすべての人々に、環境とは何か、環境が問題であるとはいかなることなのか、そしてこの時代に環境と向き合うことにはいかなる意味があるのかということを、自分自身の言葉で語ってほしい。そうしてはじめて環境思想はこの国で根を張り、魂を備えたものになるはずである。」

 実際、この30年間日本の研究者は何もしてこなかったわけではありません。90年代に欧米の環境思想が広く日本に紹介されて以来、当時の日本の先生方が、それを鵜呑みにすることなく自らの言葉で語り直し、説明し直し、独自の「ものの見方」を確立しようと格闘されてきた姿を、少なくとも私は見てきました。

 「そもそも環境とは何か?」「環境が問題であるとはいかなることなのか」「この時代に環境と向き合うことにはいかなる意味があるのか」――だからこそ、それらを自分自身の言葉で語っていくことを恐れてはいけないし、忘れてはいけない。そしてその格闘の姿勢を繋いでいくことこそが、「思想を根づかせる」ための最大の原動力なのではないかと、私には思えるのです。

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【論文】加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか

 昨年執筆した環境加速主義関連の論文が公開されました。

上柿崇英(2025b)「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、Vol.19、No.1号、pp. 94-118

 今回の主題は、筆者がこれまで環境加速主義(environmental accelerationism)と呼んできた思想が、現代思想としての加速主義(accelerationism)に対してどのような関係にあるのかということについてです。

 ※環境加速主義についてはこれまでも記事を載せてきました。関連記事はこちらをご覧ください。(「環境加速主義」を論じた、はじめての書籍が刊行されました(2024年9月25日 )

 ”環境=加速主義”と表記する以上、環境加速主義と加速主義には密接な関わりがあります。しかし本論で見ていくように、両者には一見すると矛盾するような側面も存在しているため、本論では加速主義とはそもそもいかなる思想であるのかということからはじめ、改めて環境加速主義がいかなる意味において加速主義的だと言えるのかということを論じているわけです。


 ところで、日本の言論空間を見ていると、加速主義という言葉が想起させるのは、いかに社会が出鱈目であっても、落ちるところまで落ちて崩壊にいたったときにこそ、あるいは劇薬のような手段に訴えて、社会を暴走させた破局の先にこそ、私たちはあらたな地平、新たな希望を見いだしうるといった破滅的な志向性です。

 加速主義には、確かにこうしたイメージと符合するような潮流が存在します。しかし加速主義という概念が負っている世界観やメッセージ性はそれだけでありません。

 というよりも、言葉というものは時代や状況によって変化していきますので、注目したいのは、それぞれの時代や状況において、人々がその概念(言葉)を用いて何を想起し、何を語ろうとし、あるいは何を託そうとしているのかということです。
 したがって私たちが何らかの思想潮流を理解しようとするとき、私たちはその概念(言葉)が負っているさまざまな側面を立体的につかみ取っていくことが求められると言えるでしょう。


 加速主義のアイデアのなかで共通しているのは、現状を打破したいという強い危機感とともに、何かの加速によって現状が打破され、それを通じて新たな地平に到達しようという問題意識だと思います。

 そうなると、着眼すべき点は①「そこでの“加速”が何の加速を意味しているのか」②「その加速によって何を打破したいのか」③「その加速の先にどのような未来を見据えているのか」という3つの論点となります。

 この3つの点に注意しながら、最初に加速主義の一般的な定義について考えてみることにしましょう。
 例えば『加速主義読本』(#Accelerate: The Accelerationist Reader, 2014)には、加速主義について以下のように書かれています。

 「加速主義とは政治的異端である。・・・・・・資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、それに抵抗することでも、中断することでも、批判することでもなく、また資本主義が自らの矛盾によって崩壊するのを待つことでもない。唯一のラディカルな応答とは、資本主義の、根を奪い、疎外し、脱コード化する抽象的な諸傾向を加速することである。」

(Mackay and Avanessian 2014:4)

 以上を踏まえると、加速主義の”加速”が意味するところは、第一義において、資本主義(資本制社会)を加速させるというニュアンスであるということがわかります。
 次に加速主義における“加速”の由来とされている、G・ドゥルーズ/とF・ガタリの『アンチ・オイティプス』の記述についても見ておきます。

 「しかし、どのような革命の道があるというのか。それはひとつでも存在するのか。それは、サミール・アミンが第三世界の国々に忠告しているように世界市場から退いて、ファシスト的な「経済的解決」を奇妙にも復活させることなのか。それとも、逆の方向に進むことであるのか。すなわち、市場の(つまり脱コードの運動、脱土地化の運動)の方向にさらにいっそう遠くまで進むことであるのか。じじつ、恐らく、高度に分裂症的な流れの理論や実践からすれば、種々の流れはまだ十分には脱土地化してもいないし、脱コード化してもいないからである。ここでは、進行から身を引くことではなくて、もっと先に進むことが大切なのである。ニーチェがいっていたように、「過程を加速すること」が。じつをいえば、この事態については、われわれはまだ何もみてきたわけではない。」

Deleuze and Guattari 1972:285=ドゥルーズ/ガタリ 1986:287(太字は筆者)

 要するに標準的な理解においては、加速主義とは、資本制社会がさまざまな問題を抱えていることを認めたうえで、それでもなおわれわれは現在主流の社会経済システムをよりいっそう加速させるべきだとする考え方ということになると言えるでしょう。

 また加速主義には、以下のようなイメージもつきまといます。社会主義が目指した革命の理想や改革の実践を含めて、これまで資本制社会を乗り越えるオルタナティブが繰り返し語られきた。しかし資本制社会に代わるような確固とした成功モデルは結局現れなかったし、今後そうしたものが現れてくるという見込みもない。
 M・フィッシャーを通じて知られるようになった有名な一文があります。

 「資本主義の終わりを想像するよりも、世界の終わりを創造する方が容易である」

Fisher 2009:2=フィッシャー 2018:9-10

 ここにはそうした改革の行き詰まりや、オルタナティブを求める運動に対する幻滅と諦めの心情がよく表現されていると言えるでしょう。

 つまり加速主義が第一義に打破したいのは、問題を抱えてもなお変革の方向性が見いだせず、行き詰まっている資本制社会の現状ということになります。そして従来のオルタナティブに向けた戦略が絶望的であるために、いっそのこと資本制社会を行きつくところまで加速させてしまおう。その先にこそ私たちは何らかの「出口」に到達できるのではないか?――これが加速主義のもっともオーソドックスな理解の仕方ということになるわけです。

 では、先に見た「落ちるところまで落ちて崩壊にいたる、社会を暴走させた破局の先にこそ、希望があるといった破滅的な志向性」といったニュアンスはここからきていると言えるのでしょうか。
 実はこのイメージは、後述するN・ランドの思想、加速主義のグループのひとつとなる右派加速主義に由来しています。したがってこのことを理解するためには、加速主義がここからどのよう分化していったのかということを見ておく必要があります。
 

 少し回り道となりますが、前述した『加速主義読本』にいったん立ち返ってみます。
 まず加速主義(accelerationism)という用語については、R・ゼラズニィ(R. Zelazny)というSF作家が『光の王』(Lord of Light, 1967)という作品のなかで使用したのが最初と言われています。そこでは神を称する人々が支配していたテクノロジーを民衆へと解放させようと試みる人々が、加速主義者と呼ばれたようです。しかしこの時点では、上述のような資本制社会の加速というニュアンスはそれほどありません。

 資本制社会の加速というニュアンスで加速主義が用いられるようになるのは、B・ノイズ(B. Noys)による『否定的なるものの持続性』(The persistence of the negative, 2010)が最初であるとされています。

 「これらのテキストはいずれも、著者が極左の潮流によって形成されたことを示しており、それぞれが過激さの点で互いを凌駕しようとしている。特に彼らは、マルクスの「資本主義的生産の真の障壁は資本そのものである」という主張に対し、資本主義を自己に対して転覆させることでこの障壁を突破しなければならないと論じている。これらは「最悪の政治」の異色の変種である。つまり資本主義が自らの解体させる力を生み出すならば、資本主義そのものを急進化させる必要性がある。要するに悪ければ悪いほど良い。この傾向を加速主義と呼べるだろう。

B. Noys (2010) The Persistence of Negative: A Critique of Contemporary Continental Theory, Edinburgh University Press, p.5(強調は筆者)

 ノイズの言う「これらのテキスト」とは、ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』、リオタールの『リビドー経済』、ボードリヤールの『象徴的交換と死』のことです。
 資本制社会が自らを解体させていく力を生みだすとすれば、それは資本制社会をさらに極端に推し進めていったときである――こうした考え方に立つ思想のことを加速主義と定義しているわけです。

 注目したいのは、このノイズの著作の出版イベントも兼ねる形で、2010年にロンドン大学であるシンポジウム行われ、それが契機となる形で加速主義という用語が広く知られるようになったとされている点です。

 このシンポジウムには、前述したN・ランドの著作も取りあげられ、メンバーを見てみると、R・マッカイ(R. Mackay)、M・フィッシャー(M. Fisher)、N・スルニチェク(N. Srnicek)、R・ブラシエ(R. Brassier)、I・グラント(I. Grant)など、2010年代に加速主義の諸潮流を形作っていく重要な人物が数多く参加していることが分かります。
 つまり加速主義は、ここをひとつの起点としながら、2010年代にかけてさまざまな形に分岐していったと考えることができると思います。

(※なおこのあたりの背景については木澤佐登志(2019)『ニック・ランドと新反動主義―― 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』星海社新書も参考になるので取りあげておきましょう)


 さて、加速主義の諸潮流(グループ)として本論が注目しているのは、右派加速主義左派加速主義、そして効果的加速主義の3つになります。(他にも無条件加速主義(unconditional accelerationism, u/acc)――提唱者はV・ガートン(V. Garton)――というものもあるのですが、今回は取りあげていません。)

 ここでは前述した、①「そこでの“加速”が何の加速を意味しているのか」②「その加速によって何を打破したいのか」③「その加速の先にどのような未来を見据えているのか」という3つの論点を意識しながら、それぞれのグループの違いについて考えてみましょう。

 まず右派加速主義(right-accelerationism, r/acc)は、前述したN・ランド(N. Land)の影響を受けた加速主義のことを指しています。
 右派加速主義のいう”加速”には、資本制社会の加速という意味合いもありますが、それよりも目を引くのは、そこで打破すべき現状として、リベラルな価値理念とそれを擁護しようとする人たちの限界が強烈に意識されているという点です。

 リベラルを称する人々は、伝統的に資本制社会がもたらす副作用をより民主的な制度の構築や政府による市場への介入によって克服しようと考えてきました。しかしそうしたアプローチこそがむしろ社会を荒廃させる結果となっている。私たちはむしろ――リベラル派が嫌う――リバタリアンな方向性を徹底化(加速)させて、C・ヤーヴィン(C. Yarvin)の「新官房学」(neocameralism)が描くような「出口」を目指すべきである。これがランドの言い分です。(「新官房学」については、本文で説明していますのでそちらを参照してください)

 ただしこの説明だけでは、こうした主張に共鳴する人々が、加速主義という言葉に何を託そうとしていたのかという点が見えてきません。本文では詳しく取りあげていますが、このことを理解する手がかりは、ロジックの背後にある人々の”心情”にあると考えられるからです。

 例えばリベラルな価値理念を擁護しようとする人々は、その価値理念を少しでも毀損しそうな主張を見かけると、そうした人たちを、しばしば一方的に「悪の側」に仕立て上げたり、無知で軽薄な人々というレッテルを貼ることがあります。
 しかしそうした人々の中には、その人たちなりの「現実問題」に対する実感があって、さまざまな葛藤の結果としてリベラルな価値理念に反発している場合があります。

 それにもかかわらず価値理念に立つ人々、特にエリート層の界隈は、そうした人々から見ると、あたかもその主張が価値理念を毀損するという理由だけでもって、「現実問題」の存在自体をまるごと否定しているように見える。
 そしてどれだけ理念の正しさを啓蒙さられたところで、目の前から「現実問題」が消えてなくなるわけではない。そのためそうした人々は、やがて自分たちが無視された存在であり、理念の絵空事によって不当に貶められていると感じるようになる。こうしてある種の被害者感情のようなものが蓄積されていくことになるのです。

 この心情は、米国でトランプ政権がなぜあれほどの支持を得たのか、また世界全体で問題となっている移民問題が、なぜこれほどの感情的な分断を引き起こすのかという問題とも決して無関係ではないでしょう。

 いずれにせよ、こうして被害者感情とともに追いつめられた人々が、社会のエリート層をはじめとした「主流派」に、あるいは「現実問題」に対処できない価値理念そのものに対して自暴自棄的な反逆へといたる――。
 冒頭で見たような「落ちるところまで落ちて崩壊にいたる先にこそ、あるいは社会を暴走させた破局の先にこそ希望がある」といった破滅的な志向性は、実はこうした右派加速主義特有の心情問題から出てきたものだと筆者は思うのです。


 これに対して左派加速主義(left-accelerationism, l/acc)は、N・スルニチェク(N. Srnicek)とA・ウイリアムズ(A. Williams)の影響を受けた加速主義で、その考え方は右派加速主義とはかなりの違いがあります。

 まず左派加速主義もまた、資本制社会の加速を主張しますが、そこで目を引くのは、未来技術を梃子にした「ポスト労働社会」というユートピアの構想を掲げているという点です。
 左派加速主義が打破したいのは、これまでの左翼運動が「素朴政治」――「プラカード」や「人間の鎖」に象徴されるような草の根の実践――に終始してきたが、それが現実の社会変革にはまったく寄与していないという現状でした。

 そのような「素朴政治」で資本制社会に抵抗するよりも、資本制社会を先に進める(加速)ことで技術革新を進展させること、そして最終的にはAIやロボットによる産業の自動化と、ユニバーサル・ベーシックインカムを組み合わせることで、人々が動労から解放された世界を構築できると彼らは考えるのです。

 ここには右派加速主義にあったようなリベラル派に対する憎悪や自暴自棄的なニュアンスは見られません。重要なのは未来技術への”賭け”であって、資本制社会はそのためにこそ加速されるべきだという考え方です。ここにおいて加速主義の“加速”は、資本制社会の加速よりも、科学技術の加速というニュアンスを強めるようになってきているのです。
 (ちなみに未来技術については右派加速主義も肯定的です。本文でも言及していますが、例えばランドは、生物工学を媒介としたポストヒューマン化によって、人類は人種問題それ自体から解放されると語っています)

 最後に効果的加速主義(effective accelerationism, e/acc)ですが、その中心にある考え方は、例えばAGI(汎用人工知能)のように一部の人々に危険視されている技術であっても、私たちは無条件に技術革新を進めるべきだというものです。

 この概念の提唱者とされるG・ヴェルドン(G. Verdon)によれば、重要なのは、宇宙に内在する広義の意味での「知性」の存在であって、私たちは将来的なAIと人間の融合も含めて、「知性」の求める技術の革新を止めるべきではない。それは宇宙の一部である人間が、「宇宙の意思」にしたがうことでもあると主張しています。

 注目したいのは、この議論が近年のAI論争のなかから出てきたものであること、またここでの“加速”は明確に科学技術の加速を意味しているのであって、資本制社会の加速という主題は背後に退いてしまっているという点です。ここでの議論において資本制社会は、それが科学技術の加速を進めるにあたって最も効率的なイノベーションをもたらす社会制度である、ということ以上の意味を持ちません。

 またV・ブテリン(V. Buterin)の解釈にしたがえば、効果的加速主義の基本的な世界観は「背後には危険、前方にはユートピア」――効果的加速主義が対立する効果的利他主義の「背後には安全、前方にはディストピア」とは反対に――であって、ここには現代社会を捉えるひとつの政治的立場を見ることもできます。

 それは人類社会そのものが、今日戦争や貧困、不平等、気候変動などさまざまな問題を抱え、行き詰まりを見せていることをうけ、それを社会制度の改善や倫理規範の整備など、技術以外の手段によって克服しようと考えるのではなく、AGIを含む科学技術の潜在力こそがそれを打破していくというものです。
 (この考え方は、省エネ/省資源/再生可能エネルギーの普及による気候変動対策を諦め、惑星改造によって気候変動そのものを制御を訴える環境加速主義に通じていことが分かると思います。)

 もっとも効果的加速主義は、これまで見てきた現代思想の文脈とは異なり、テック業界の議論のなかから出てきた加速主義です。その意味では、効果的加速主義は、現代思想の文脈を強く引き継ぐ右派加速主義や左派加速主義とは本来同列に扱えないという指摘もあるかもしれません。ですが、本論ではこれらを敢えて並立して取りあげているのです。

 というのも筆者は、今後加速主義という概念が生き残るとすれば、それはここでの効果的加速主義に近い意味合いで語られていくことになるのではないかと考えているからです。
 前述したように、思想というのは時代や状況によって意味合いが変わってきます。グローバリズムの「正義」が揺らぎ、隠蔽されていた分断が目に見える形で顕在化する時代においては、右派加速主義に見られた破滅的なニュアンスは加速主義として語らるべき必然性を失っていくだろう。また資本制社会の変革という夢を共有できない世代が増えていくにしたがって、加速主義の思想としての血脈は、科学技術の加速というニュアンス、人類の進歩とポストヒューマン的展望へと収斂していくだろう――これが筆者の考えていることなのです。


 さて、加速主義の説明がながくなりましたが、本論では、こうした加速主義の特徴について掘り下げながら、それがいかなる点で環境加速主義(environmental accelerationism)と結びついているのかということを明らかにしていきます。ちなみに環境加速主義とは、以下のように定義される思想のことでした。

 「より端的に述べれば,現在の社会経済システムを基本的には維持したまま,科学技術の力によって地球環境を操作,管理,制御し,それによって「地球1個分」という自然環境の限界を乗り越えていこうとする思想こそが,ここでの環境加速主義である。」

上柿(2025b) pp.94-95

 ここでは一点だけ補足をしておきましょう。それは前述したように、環境加速主義と加速主義の間には、一見すると正反対に見えるような側面が存在するという問題です。例えば筆者は環境加速主義の目標を「より多くの人々が自立、自己決定、自己実現、多様性を享受できる世界を具現化させること」にあると説明していますが、加速主義は一面においてこうしたリベラルな価値理念に対して強い嫌悪感を抱く思想であるように見えるという問題です。

 しかし上記のように加速主義を整理していけば、この矛盾は問題なく解消されることが分かると思います。
 なぜなら前述のように、加速主義の諸潮流のうち、明確に「反リベラル」を掲げているのは右派加速主義のみであること、また右派加速主義の本質を、「現実問題」を無視され続けたことによる被害者感情と、価値理念を盾に自身を抑圧してきた人々に対する反逆の心情にあると理解するなら、本文で詳しく説明しているように、両者は対立するどころか、激しく共鳴するところがあると言えるからです。

 右派加速主義がリベラルな価値理念に対して抱いていていた不満や憤りは、環境加速主義が「エコ・ユートピア」に対して抱いていた不満と憤りときわめて似た構造を持っているのです。

 要するに加速主義の諸潮流の特徴を、オルタナティブを求める運動への幻滅と諦め(出発点)、「現実問題」の無視からくる被害者意識と価値理念への反逆の心情(右派加速主義)、「素朴政治」への批判と未来技術への賭け(左派加速主義)、そして人類の進歩とポストヒューマン的展望(効果的加速主義)と捉えるのであれば、いずれの点からも環境加速主義は、加速主義的な特徴を共有している。それが本論で述べたかったことなのです。

 以下、目次を掲載しておきます。

「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」

1.はじめに

2.環境加速主義とは何か
(1)「地球1個分問題」という対抗軸
(2)環境加速主義の理論的構造と三つの特徴
(3)環境加速主義はなぜ勝利すると言えるのか

3.加速主義と環境加速主義
(1)加速主義の環境論的転回
(2)環境加速主義と右派加速主義
(3)環境加速主義と左派加速主義
(4)環境加速主義と効果的加速主義(e/acc)、防衛/分散化/民主主義/差別化加速主義(d/acc)

4.おわりに

以下、冒頭の部分も引用しておきます。

 環境思想の議論においては、これまで二つの代表的な対抗軸が存在した。すなわち「人間中心か、そうでないか」、そして「半永続的な経済成長を許容するのか、そうでないか」である。
 とはいえそうした議論はすでに過去のものとなりつつある。今日環境思想において問われているのは、むしろわれわれが、この先地球生態系の要求に人間社会をあわせていくのか、あるいは反対に、人間社会の要求に地球生態系を合わせていくのか、という問題だからである。

 本論では、この新たな対抗軸のうち、後者に立つ思想のことを環境加速主義(environmental accelerationism)と呼ぶことにしたい。より端的に述べれば、現在の社会経済システムを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を操作、管理、制御し、それによって「地球1個分」という自然環境の限界を乗り越えていこうとする思想こそが、ここでの環境加速主義である。

 筆者は上柿(2024b)において、この先脱成長主義は敗北し、グリーン成長主義は吸収されるといった形で、この環境加速主義こそが主流の環境思想となっていく可能性について論じた。
 ただし筆者は、環境加速主義が人類にとって“好ましい”思想であるとはまったく考えていない。むしろその試みは非常にリスクの高い賭けであるとさえ考える。
 それでもなおこのように主張するのは、われわれが「地球1個分問題」を克服し、同時に現代的な価値理念である自立、自己決定、自己実現、多様性を全世界に具現化させていくためには、事実上、環境加速主義を選択するほかに手段がないこと、またこの問題が十分に議論されてきたとは言えないためである。

 本論では、この新たな対抗軸のうち、後者に立つ思想のことを環境加速主義(environmental accelerationism)と呼ぶことにしたい。より端的に述べれば、現在の社会経済システムを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を操作、管理、制御し、それによって「地球1個分」という自然環境の限界を乗り越えていこうとする思想こそが、ここでの環境加速主義である。

 筆者は上柿(2024b)において、この先脱成長主義は敗北し、グリーン成長主義は吸収されるといった形で、この環境加速主義こそが主流の環境思想となっていく可能性について論じた。ただし筆者は、環境加速主義が人類にとって“好ましい”思想であるとはまったく考えていない。むしろその試みは非常にリスクの高い賭けであるとさえ考える。
 それでもなおこのように主張するのは、われわれが「地球1個分問題」を克服し、同時に現代的な価値理念である自立、自己決定、自己実現、多様性を全世界に具現化させていくためには、事実上、環境加速主義を選択するほかに手段がないこと、またこの問題が十分に議論されてきたとは言えないためである。

 本稿ではこの問題意識を念頭に、環境加速主義と、現代思想における加速主義(accelerationism)の関係性について整理することを目的とする。
 加速主義とは、2010年代以降に米国で現れたひとつ思想潮流であり、その核心をなしているのは、資本制社会がさまざまな問題を抱えていることを認めたうえで、それでもなおわれわれは現在主流の社会経済システムをよりいっそう加速させるべきだとする考え方である。
 “環境-加速主義”と名づけている以上、両者の間には興味深い接点が存在する。しかし同時にそこには相違点も混在しており、それらの点を明確にしていくことが本稿の課題である。

 本稿では、今日の加速主義を以下の三つの立場に区別する。第一は、N・ランド(N. Land)を中心とした右派加速主義(right-accelerationism、 r/acc)、第二は、右派加速主義への批判から現れたN・スルニチェク/A・ウイリアムズ(N. Srnicek、A. Williams)に代表される左派加速主義(left-accelerationism、 l/acc)、そして第三は、近年のテック業界で見られる効果的加速主義(e/acc)および防衛/分散化/民主主義/差別化加速主義(d/acc)である。本論では、これらの立場がどのような形で環境加速主義と結びつくのかについて検討したい。 

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【文献紹介】『修理する権利: 使いつづける自由へ』

 以前、『メディオーム』の著者として当noteでもご紹介したことがある吉田健彦さんですが、今回、吉田さんが解題を書かれた 『修理する権利: 使いつづける自由へ』が刊行されましたので、こちらでも紹介させていただきます。

『修理する権利: 使いつづける自由へ』 著者:アーロン・パーザナウスキー翻訳:西村 伸泰出版社:青土社装丁:単行本(464ページ)発売日:2025-04-28 ISBN-10:479177695X ISBN-13:978-4791776955


 「修理する権利」とは、今日の「壊れたら買い換え」というモノとの向きあい方、およびそうした向きあい方を強要するシステムを批判し、そこから私たちには、修理をしながら長くモノを使い続ける権利があると主張する考え方のことです。
 以下、上記のウェブサイトから概要を転載します。

 いま、欧米を中心に「修理する権利」を求める立法や運動がひろがっています。「壊れたら買い替え」へ消費者を促す資本主義社会に一石を投じるこの概念/運動は、日本においても重要な契機となるでしょう。このたび刊行された『修理する権利——使いつづける自由へ』は、「修理する権利」をめぐる議論の最前線である米国から届いた、本邦初の決定的入門書です。 そもそも、なぜ修理を「権利」として求める必要があるのか、修理を阻んでいるものはなにか——。当たり前なようでいて、しかし気づけば遠ざかってしまった「修理」という営みを問い直すために、本書に寄せられた吉田健彦氏による解題「修理する権利、あるいは私たちの生を取り戻すための抵抗運動」の一部を限定公開いたします。

吉田健彦「『修理する権利: 使いつづける自由へ』(青土社)」ALL REVIEWS


 吉田さんが書かれているのは同書の「解題」の部分なのですが、こちらも大変読み応えがあります。特に「修理する権利」を単に権利の問題に留めることなく、「修理をする」という行為そのものに含まれる、人間存在論的な原理の側面に対してスポットライトをあてているところが特徴だと思います。

「(何ものかの修理ができないということは、 何も所有していないことを意味し)、それはつまり私たちがそれとともに過ごした時間を、歴史を、記憶を奪われるのを防ぐ手段がないということでもある。」(p.449)

「(修理する権利とは)単なる理念ではなく、直接私たちの生存にかかわり、他の誰でもない固有の生送るために必須の条件なのだ。」(p.452)

「製品が持つ時間遅延させることの意義は・・・ものが時間を持つということは、つまり置き換え不可能な歴史/記憶をそこに刻み込む余裕を持てるということだ。・・・そして固有な歴史/記憶を持つようになった様々な物に囲まれることで、私たち自身もまた、この私の生活を、あるいは生そのものを固有のものへと育てていくことができる。」(p.456)

「(修理によって物が完全に戻ることはない)それでも、汚れ、傷つき、壊れた物を・・・すべてを元には戻せないところで抗い続けることにこそ、修理が持つ本質的な意味がある。だからこそ、抗う時間のなかでのこされていく一つ一つの傷や汚れが、私たちに固有の歴史を与えてくれる。」(p.457)

 

 上記の引用に何かピンと来る方がいらっしゃれば、ぜひ本書を手に取っていただきたいところです。
 また以下は、吉田さんが以前同書の出版記念イベントでお話しされたときの告知情報ですので、関心のある方はご参照ください。

Fab Cafe 【出版記念イベント】修理する権利とそのローカライゼーション

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【講演記録】ポストヒューマン時代が照射する共生・共同の根本問題

 先日、多文化関係学会の先生からお声をかけていただき、年次大会の基調講演をさせていただく機会をいただきました。とてもアットホームな雰囲気で気持ちよくお話しをさせていただき、また普段接しない方々と交流できたことはとても良い体験でした。
 この場を借りて、改めて感謝とお礼を申し上げたいと思います。

 以下は、当日の音声に一部修正を加えたスライドを合成した動画と、その内容をテキスト化したものです。

 前半部分では「ポストヒューマン」=「人間以後」という概念を手がかりに、最近の科学技術と人間存在の揺らぎをめぐる問題について確認し、後半では『〈自己完結社会〉の成立』で論じた「意のままにならない生」〈世界了解〉〈ヒューマニズム〉の問題がポストヒューマン化の進行するこの時代に何を投げかけているのかについて取りあげています。
 よろしければ是非覗いてみてください。

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「ポストヒューマン」とは何か?

 所属している学会との関連で「ポスト・ヒューマン」の用語説明を頼まれたのですが、記事が長くなったので分割することになりました。せっかくですので、分割前の文章をnoteに掲載しました。

「ポスト・ヒューマン」とは何か?

はじめに
・「実体としての人間」の揺らぎ
・「準拠点としての人間」の揺らぎ
・ポストヒューマニズム
・トランス・ヒューマニズム
おわりに

 ポストヒューマン(post-human)とは、直訳すると「人間以後」となりますが、この概念が注目されているのは、近年のAIやロボットや生命操作技術などの進展によって、これまで私たちが「人間」という形で想定してきた枠組みが急速に解体しつつあることが関係しています。
 そうした時代状況を反映する形で、また人間を捉える新たな枠組みを問題にする際に、ポストヒューマンという概念が用いられているのです。

 もっとも、ポストヒューマンという語をめぐっては、論者によっていくつかのニュアンスが錯綜している部分があります。そのため本論では、そのあたりを整理することを目指して、ふたつの軸を導入することにしました。

 第一の軸は、現象/社会的現実としてのポストヒューマンに着目したもので、私たちがポストヒューマンという際に、それがいかなる意味において「人間以後」なのかをめぐって設定されたものです。

 そこでは一方で、生物学的な「ヒト」を含め私たちが「実体としての人間」だと見なしてきた枠組みが揺らぐという意味で「人間以後」と見なす場合と、他方では、人間こそが物事の価値や基準の中心にあるとする「準拠点としての人間」という前提が揺らぐという意味で「人間以後」と見なす場合とがあり、両者を区別することができます。

 ここでは、遺伝子治療、エンハンスメント、BMI、メタバース、アバターなどを前者=「実体としての人間」の揺らぎをめぐる問題として、家族となるAI/ロボット、管理や判断を行うAI、汎用人工知能(AGI)、動物の権利などを後者=「準拠点としての人間」の揺らぎをめぐる問題として扱っていますが、重要なのは着眼点の違いですので、具体的な事例を入れ替えて論じることもできるでしょう。

 次に第二の軸は、ポストヒューマンを現象/社会的現実として捉えるというよりも、思想的にどのように位置づけるているのかという点に着目したものです。特に私たち自身がポストヒューマンな存在になること、あるいは世界がポストヒューマンなものとなっていくことに対して、積極的な意味を付与するかどうかをめぐって設定されます。

 このとき、私たちがポストヒューマンな存在になることに積極的な意味を見いだすグループが、トランスヒューマニズムです。例えばシンギュラリティで有名なカーツワイルや、2023年頃にChatGPTをめぐって論陣を張った効果的加速主義(e/acc)などは、ここに位置づけられます。

 他方でポストヒューマンをめぐる多くの議論は、私たちがポストヒューマンな存在になることを必ずしも推進しているわけではありません。そこで本論では、ポストヒューマンに関する思想的な言説一般のことを、トランスヒューマニズムと区別する形で、ポストヒューマニズムと定義します。

 ただしポストヒューマニズムという言葉には注意が必要です。というのも、これを「ポストヒューマン・イズム」と理解するか、「ポスト・ヒューマニズム」と理解するかでニュアンスが大きく変わってくるからです。

 例えばハラリが『ホモ・デウス』で論じた無用者階級論、あるいは人間の絶滅以後の世界を思想的に論じた場合などは、ポストヒューマンについて論じた言説ではあるものの、それを推進しているわけではないので、ポストヒューマニズム(ポストヒューマン・イズム)の事例として位置づけられます。

 他方でポストヒューマニズムを「ポスト・ヒューマニズム」と理解する場合には、特別な意味が付与されることになります。端的に言うと、カントに代表される「道徳的で理性的な主体」としての人間を批判する思想/言説というニュアンスです。

 こうした意味での「人間の終焉」を哲学的に提示したのはフーコーですが、その系譜から、例えば”主体”そのものを否定したり、人間以外の「何ものか」を”主体”と見なす場合など、「近代的な主体=人間中心主義(ヒューマニズム)」を批判する思想的立場は、この文脈ではすべてポストヒューマニズム(ポスト・ヒューマニズム)として位置づけられます。具体的には、フェミニズムからロボット/AIの権利論、動物の権利論、アクターネットワーク論などがこれにあたります。


 さて、以上が本論の概要なのですが、本論を整理するにあたって改めて感じたことがあります。それは、ポストヒューマンを論じた多くの文献が、上記の整理で言うところの「ポスト・ヒューマニズム」から議論を行っていること、その結果ポストヒューマンが「準拠点としての人間」の揺らぎという視点に偏る形で論じられているように感じるということです。

 なかでも多いのは、フェミニズムの文脈でポストヒューマンを論じたブライドッティの枠組みを出発点とする議論ですが、こうなると、ポストヒューマン論とは「近代的主体なきあとの主体をめぐる問題」となってしまい、議論の射程が大きく狭まってしまいます。

 筆者の考えでは、ポストヒューマンという概念が注目されている最大の理由は、私たちの現実的な問題として、これまで自明視されてきた生物としての「ヒト」の枠組みが解体していっていること、またそれを是が非でも推進すべきだと論陣を張る人々が実際に存在する――しかもそれなりに大きな影響力を持つ形で――ことにあります

 つまり、時代が要請しているのは、むしろ「実体としての人間」が揺らぐという現実をどう考えるのか、またトランスヒューマニズムとどのように向き合っていくのかという問題であるということです。

 もちろん「主体」を考察することで見えてくることはたくさんあります。実際私たちは、「人間ならざる何ものか」に注目することによって、これまでの常識的なものの見方が揺らぎ、これまで自明視してきた世界の姿が違って見えることになるでしょう。そしてその過程で、聞こえていなかった声や、見えていなかった抑圧の姿を見聞きすることになるかもしれません。

 しかしそれはあくまで「目なざし」の問題です。ポストヒューマン時代に問われているのは、より現実的な問題だからです。例えば次の問いについて、皆さんならどのように考えるでしょうか?

――もしもある状況において、AIが人間よりも正確な判断を下せるとしたら、私たちはそれに従うべきだろうか? もしもAIが人間よりも効率的に組織を管理できるとするなら、私たちはそれをAIに任せてしまった方が良いのではないか? 

――もしも創造性を含めて、あらゆる能力においてAIが人間と同等か、あるいは人間以上だとするなら、なお人間が存在する価値はどこにあるのだろうか?

――もしもAIやロボットが人々にとって理想の友人や恋人や家族になってくれるのだとしたら、人間はなお、意のままにならない生身の他者と関わっていくことに意味を見いだしうるのだろうか?

――もしも高度に発達したメタバースを通じて、「なりたい私」=アバターとして充実した生が成立するとき、私たちはなお、望んだわけでもないこの身体に特別な意味を見いだしうるのだろうか?

――もしも精巧で十分に美味しい人工肉が手頃に入手できるとして、それでもなお私たちは、敢えて生身の動物を殺害することに正当性を見いだしうるのだろうか?

 つまりポストヒューマン論にとって重要なのは、ただ「主体」を論じることではなくて、その先にあるもの、つまり現実として現れるだろうポストヒューマンな存在、あるいはポストヒューマンな世界に対して、いかなる意味を与えることができるのかまでを論じることだ思うのです。

 私たちが望むと望まざるとに関わらず、私たちはポストヒューマン化が加速していく時代を生きています。そしてそれを避けることはおそらくできないでしょう。そのことを引き受けたうえで、なおそこで現れる新しい〈人間〉とはいかなる存在なのか? そして翻って私たちは結局「何もの」だったのか? そのことがいま、改めて問われているのだと思うのです。

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「総合知」とは何か?

 これまで総合人間学会という場で考えてきた「中間理論」を含む「総合知」について、このタイミングでまとめておきたいと思っていました。

「総合知」について考える――「総合知」の三つの位相としての「全体知」、「実践知」、「中間理論」について

 動画作成も3本目となり、多少は技術も向上したのではないかと思っています。

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「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史

 以前「持続可能性は何を持続させるのか?」という記事を書かせていただいたAndTechさん刊行の『環境配慮材料』に、新しい記事を書かせていただきました。

上柿崇英(2025a)「「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史」『環境配慮型材料』、AndTech、 vol.12、pp.95-109


 やや奇妙なタイトルかもしれませんが、この記事では、これまで筆者が論じてきた環境哲学の枠組みを土台として、私たちが生きる現代社会の抱えている持続不可能性の問題を、「天空城」の比喩というものを用いて論じています。

 ここで、空高く浮遊する巨大な城のことを想像してみてください。その「天空城」は、周囲を城壁で取り囲まれ、城壁の内側には、整備された農地や庭園とともに、大勢の人間たちが暮らしています――。

 私たち人間は、実は自然生態系=「自然環境」のうえに人工的な環境=「社会環境」をつくりだし、しかもそれを、世代を越えて膨張/蓄積させていくという特殊な性質を備えた存在です。

 人間が創出した「社会環境」は、やがて長い年月の末に巨大な人工物の集積物として発展していきますが、重要なことは、それが化石燃料の使用をひとつのきっかけとして、土台となっていたはずの「自然環境」から分離し、科学技術を用いて、加速度的に膨張/蓄積していくシステムへと変貌していったということです。

 本論ではその様子を、かつて大地に根ざしていたはずの都市が、大地から浮遊した「天空城」へと変貌していく姿として比喩的に論じているわけです

 気候変動を含む多くの問題を抱えた私たちは、言ってみれば浮遊状態に限界を感じながらも、なんとかして現状維持を図ろうとしている「天空城」とよく似た状態にあります。

 そして最も確実な問題解決の方法は、「天空城」を大地へと帰還させることとなるのですが、私たちはその選択をできそうにもありません。

 というのも、SDGsにも体現された、現代の人間的な理想が求める、80億人が富裕国並みの物質的・社会的水準を達成するという方向性は、大地への帰還とは逆の方向性であること、そして大地への帰還を果たすためには、人々には等身大の「助け合い」が求められるものの、すでに私たちは便利で快適で、自己決定が保障された生活に慣れすぎてしまっており、いまさら「助け合い」で生活していける自信も、スキルもないと感じているからです
(この問題について関心のある方は、以下の解説記事をご参照ください)。

 大地への帰還ができそうにもなく、浮遊状態のを何とか延命させようともがき、最後は、なし崩し的に科学技術による強行突破という賭けに打って出ようとしている――それが本論で描きだされる私たちの姿です。

 その”賭け”がもたらす人間の未来を、本論では思考実験的に、「「天空城」の要塞化」「惑星の「天空城」化」という形で描きました。そのいずれかが成功すれば、理論的には環境問題そのものが”撲滅”されることとなるでしょう。
 しかし科学技術がそのような未来を約束してくれる保障などまったくありません。その意味において、その”賭け”は依然として、大きなリスクを伴う賭けであると言えるでしょう。

 
 なお、本論では明記していませんが、実は本論は、宮崎駿監督による『天空の城ラピュタ』(スタジオジブリ、1986)を意識して書かれたものでもあります。

 作中の「ラピュタ王国」は、科学技術の力によって「天空城」を築きあげ、強大な軍事力によって地上を支配し、繁栄したとされています。しかしオープニングでは、原因は明かされないながらも、「ラピュタ王国」が滅び、人々が大地へと還っていく姿が描かれています。

 登場人物であるムスカが「ラピュタは何度でも甦る。それが人類の夢だからだ」と主張するのに対して、シータは「自分にはラピュタが滅んだ理由がよく分かる。人は、土を離れては生きられない」と主張します。この作品が描かれてから40年あまり、作品が訴えかけるメッセージは、いまを生きる私たちにはどのような響きを持って受け止められるでしょうか。

 ちなみに、筆者は本論の最後を次のように締めくくりました。

 そしてこうした現生人類の八方塞がりに頭を悩ませるとき、筆者はふと思うことがある。ネアンデルタール人は、4万年前まで現生人類と共存し、火を使い、集団で狩りを行い、装飾品さえ製作していた。つまり私たちとは別種の存在でありながら、「社会環境」を膨張/蓄積させるサイクルを独自に持っていたのである。もしも彼らが絶滅することなく、いまでも生き延びていたとするなら、はたして彼らはどのような世界を築きあげたのだろうか――と。

上柿崇英(2025a)「「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史」p.108 より

 「天空城」はどこへ?――それは自然生態系=「自然環境」のうえに人工的な環境=「社会環境」をつくりだし、しかもそれを、世代を越えて膨張/蓄積させていくという特殊な性質を備えた存在であるところの、私たち人類の運命、そして未来についての問いにほかならないのです。

※noteの方からも全文を読むことができますので、詳しくはそちらもご参照ください。


 「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史行方

はじめに

1.そもそも環境とはなにか?
(1)生物存在から考える、主体と環境の関係性
(2)環境を創造する生物としての人間存在
(3)人工的な環境としての「社会環境」の構造

2.人類史から見る「社会環境」の変遷史
(1)「社会環境」はいつ成立したのか?
(2)農耕社会の成立が意味したこと
(3)化石燃料社会の成立が意味したこと
(4)「定常状態」から環境問題を考える

3.「天空城」の比喩
(1)環境問題とは何であったのか
(2)「天空城」としての人間社会
(3)「天空城」に与えられた選択肢①――「天空城」の帰還を考える
(4)「天空城」に与えられた選択肢②――「天空城」の浮上策を考える
(5)「天空城」に与えられた選択肢③――「天空城」の要塞化と、惑星の「天空城」化

おわりに――「天空城」はどこへ?

  以下、冒頭の部分について転載しておきます。

 人間が環境を改変し、その結果として環境問題が生じていることはよく知られている。しかしそもそも環境を改変するとは何を意味するのか、またそうした行為を行う人間とはいかなる存在なのか?――ここまで考えている人々は少ないかもしれない。

 例えば想像してみて欲しい。ビーバーが河をせき止めてダムを造り、シャカイハタオリが草木を編んでマンションを建てるように、環境を改変するのは決して人間だけではない。
 またいかなる生物も、何かが引き金となって、ときに生態系のバランスを攪乱させてしまうことがある。要するに、環境を破壊するのは人間だけではないのである。

 それにもかかわらず、人間が行う環境の改変や、人間に由来する生態系の攪乱には、やはり他の生物種が行うものとは異なる側面があるように見える。問題は、その違いとは何かである。
 人間には、人工的な環境それ自体を創出し、しかもそれを次世代へと脈々と継承していく特殊な能力が備わっている。実は今日私たちが環境問題と呼んでいる事態には、この人間固有の性質が深く関わっているのである。
 では人間とは、そもそも環境破壊的な生き物であり、気候変動を含む今日の事態は、そうした人間存在による必然的な結果だということになるのだろうか。そうとも言い切れない。なぜなら、700万年の人類の歩みから見えてくるのは、人間と環境をめぐる関係性の劇的な変容であり、それに伴って私たち自身の姿もまた変容を遂げていくドラマだからである。

 本論では、この環境を改変する人間とはいかなる存在なのかという問いから出発し、700万年に及ぶ人類の歩みから環境問題の起源について考える。とりわけホモ・サピエンスが現れ、農耕社会が成立し、化石燃料社会が成立してきたことの意味を、人間と環境の関係性の文脈から読み解き、そのうえで現在の私たちが置かれた状況について、「天空城」の比喩を用いて環境哲学的に考えてみたい(※1)。
 人類が創出した人工的な「社会環境」は、「自然環境」から分離し、肥大化し、やがて化石燃料を動力とした自己完結型のシステムへと変貌した。それはあたかも「自然環境」から浮遊した「天空城」のごときものであり、私たちに問われているのは、まさしくこの「天空城」をどこへ導いていくのかという問題だからである。
 はたして私たちは、この自己完結した巨大なシステムを再び大地に根づかせようとするのだろうか? それとも何とかしてそのシステムの浮遊状態を持続させようと奮闘し続けるのだろうか? ――そのことが問われているのである。

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吉田健彦『メディオームーポストヒューマンのメディア論』を読む:【第1回:後半】メディア技術と人間存在のゆくえ

 以前投稿しました、吉田健彦さんの著作『メディオーム――ポストヒューマンのメディア論』の解説動画【後半】部分を公開しました

 『メディオーム』は、インターネットから、ライフログ、3Dプリンタに至るまで、加速度的に進展していくメディア環境にあって、私たち人間存在のゆくえについて、一人の思想家が徹底的に掘り下げた作品です。

 私たちはどこへいくのか? 「この私」とは何ものか? なぜ人は他者を求めてしまうのか? といった疑問を一度でも持ったことがある方には、ぜひ一度手に取っていただきたい作品です。


 第1回の後半では、「本書の見所」という形で、いよいよ本書の全体像を紐解いていきます。

  • (1)この私とは何ものか?ー他者原理と欲望の二重らせん
  • (2)デジタル化とは何か?ー存在の地図化、あるいは世俗的な神
  • (3)メディオームとは何か?ー存在論的ノイズ、そして他者原理への信頼

 ぜひ覗いてみてください。

note版 吉田健彦『メディオームーーポストヒューマンのメディア論』を読む(第1回)

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吉田健彦『メディオームーポストヒューマンのメディア論』を読む:【第1回:前半】メディア技術と人間存在のゆくえ

 これまでずっとやりたいと思っていた、吉田健彦さんの著作『メディオーム――ポストヒューマンのメディア論』の解説動画(前半)を作成しました。

 『メディオーム』は、インターネットから、ライフログ、3Dプリンタに至るまで、加速度的に進展していくメディア環境にあって、私たち人間の存在のあり方のゆくえについて、一人の思想家が徹底的に掘り下げた作品です。


  • 「あらゆることを実現させてくれる技術を前に、ふと虚無のようなものを感じることはないか?
  • 「誰とも簡単に繋がれる時代に、なぜ多くの人々が孤独を抱えて悩んでいるのか?
  • 「他者と関わることは、なぜこんなにも苦しみを伴うのか?
  • 「それなのに、なぜ私たちは他者を求めてしまうのか?

 以上のような疑問を一度でも持ったことがある方には、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

 さて、第1回では、本書の全体像が分かるように動画を計画しましたが、今回公開する前半部分では、以下の3点が中心的なコンテンツとなります。

  • 本書の問題意識
  • 著者、吉田健彦さんについて
  • メディア技術と私たち―「技術肯定派VS技術否定派」の向こう側

 特に「メディア技術と私たち」では、本書の重要なキーワードの一つである「必然的に異常な社会(必然的異常社会)」についての説明があります。

 ぜひ覗いてみてください。note版もどうぞ。

note版 吉田健彦『メディオームーーポストヒューマンのメディア論』を読む(第1回)

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「環境加速主義」を論じた、はじめての書籍が刊行されました

 環境加速主義について論じた、はじめての書籍が近々刊行されます(第1章担当)。環境加速主義という概念自体、私がそう呼んでいるだけと言えばそうなのですが、ここで環境加速主義として論じているようなテーマを、おそらくまだ誰も真剣に論じたことはない、という意味です。

 上柿崇英(2024b)「【第1章】人類社会と環境の未来――「地球1個分」問題と環境加速主義の時代」『環境と資源・エネルギーの哲学(未来世界を哲学する【第1巻】)』水野友晴責任編集、丸善出版、pp. 1-44

 noteの方に、この論文の概要を解説しましたので関心のある方はリンク先をご覧ください。以下の5つの論点から重要な点を整理しています。

  • (1)脱成長主義の敗北と環境加速主義の勝利
  • (2)環境加速主義の理論的骨格
  • (3)人類史から見た環境加速主義
  • (4)環境加速主義を支える技術領域
  • (5)環境加速主義を支える世界観としての「ヒューマニズム」

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