【文献紹介】『修理する権利: 使いつづける自由へ』

 以前、『メディオーム』の著者として当noteでもご紹介したことがある吉田健彦さんですが、今回、吉田さんが解題を書かれた 『修理する権利: 使いつづける自由へ』が刊行されましたので、こちらでも紹介させていただきます。

『修理する権利: 使いつづける自由へ』 著者:アーロン・パーザナウスキー翻訳:西村 伸泰出版社:青土社装丁:単行本(464ページ)発売日:2025-04-28 ISBN-10:479177695X ISBN-13:978-4791776955


 「修理する権利」とは、今日の「壊れたら買い換え」というモノとの向きあい方、およびそうした向きあい方を強要するシステムを批判し、そこから私たちには、修理をしながら長くモノを使い続ける権利があると主張する考え方のことです。
 以下、上記のウェブサイトから概要を転載します。

 いま、欧米を中心に「修理する権利」を求める立法や運動がひろがっています。「壊れたら買い替え」へ消費者を促す資本主義社会に一石を投じるこの概念/運動は、日本においても重要な契機となるでしょう。このたび刊行された『修理する権利——使いつづける自由へ』は、「修理する権利」をめぐる議論の最前線である米国から届いた、本邦初の決定的入門書です。 そもそも、なぜ修理を「権利」として求める必要があるのか、修理を阻んでいるものはなにか——。当たり前なようでいて、しかし気づけば遠ざかってしまった「修理」という営みを問い直すために、本書に寄せられた吉田健彦氏による解題「修理する権利、あるいは私たちの生を取り戻すための抵抗運動」の一部を限定公開いたします。

吉田健彦「『修理する権利: 使いつづける自由へ』(青土社)」ALL REVIEWS


 吉田さんが書かれているのは同書の「解題」の部分なのですが、こちらも大変読み応えがあります。特に「修理する権利」を単に権利の問題に留めることなく、「修理をする」という行為そのものに含まれる、人間存在論的な原理の側面に対してスポットライトをあてているところが特徴だと思います。

「(何ものかの修理ができないということは、 何も所有していないことを意味し)、それはつまり私たちがそれとともに過ごした時間を、歴史を、記憶を奪われるのを防ぐ手段がないということでもある。」(p.449)

「(修理する権利とは)単なる理念ではなく、直接私たちの生存にかかわり、他の誰でもない固有の生送るために必須の条件なのだ。」(p.452)

「製品が持つ時間遅延させることの意義は・・・ものが時間を持つということは、つまり置き換え不可能な歴史/記憶をそこに刻み込む余裕を持てるということだ。・・・そして固有な歴史/記憶を持つようになった様々な物に囲まれることで、私たち自身もまた、この私の生活を、あるいは生そのものを固有のものへと育てていくことができる。」(p.456)

「(修理によって物が完全に戻ることはない)それでも、汚れ、傷つき、壊れた物を・・・すべてを元には戻せないところで抗い続けることにこそ、修理が持つ本質的な意味がある。だからこそ、抗う時間のなかでのこされていく一つ一つの傷や汚れが、私たちに固有の歴史を与えてくれる。」(p.457)

 

 上記の引用に何かピンと来る方がいらっしゃれば、ぜひ本書を手に取っていただきたいところです。
 また以下は、吉田さんが以前同書の出版記念イベントでお話しされたときの告知情報ですので、関心のある方はご参照ください。

Fab Cafe 【出版記念イベント】修理する権利とそのローカライゼーション

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【講演記録】ポストヒューマン時代が照射する共生・共同の根本問題

 先日、多文化関係学会の先生からお声をかけていただき、年次大会の基調講演をさせていただく機会をいただきました。とてもアットホームな雰囲気で気持ちよくお話しをさせていただき、また普段接しない方々と交流できたことはとても良い体験でした。
 この場を借りて、改めて感謝とお礼を申し上げたいと思います。

 以下は、当日の音声に一部修正を加えたスライドを合成した動画と、その内容をテキスト化したものです。

 前半部分では「ポストヒューマン」=「人間以後」という概念を手がかりに、最近の科学技術と人間存在の揺らぎをめぐる問題について確認し、後半では『〈自己完結社会〉の成立』で論じた「意のままにならない生」〈世界了解〉〈ヒューマニズム〉の問題がポストヒューマン化の進行するこの時代に何を投げかけているのかについて取りあげています。
 よろしければ是非覗いてみてください。

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「ポストヒューマン」とは何か?

 所属している学会との関連で「ポスト・ヒューマン」の用語説明を頼まれたのですが、記事が長くなったので分割することになりました。せっかくですので、分割前の文章をnoteに掲載しました。

「ポスト・ヒューマン」とは何か?

はじめに
・「実体としての人間」の揺らぎ
・「準拠点としての人間」の揺らぎ
・ポストヒューマニズム
・トランス・ヒューマニズム
おわりに

 ポストヒューマン(post-human)とは、直訳すると「人間以後」となりますが、この概念が注目されているのは、近年のAIやロボットや生命操作技術などの進展によって、これまで私たちが「人間」という形で想定してきた枠組みが急速に解体しつつあることが関係しています。
 そうした時代状況を反映する形で、また人間を捉える新たな枠組みを問題にする際に、ポストヒューマンという概念が用いられているのです。

 もっとも、ポストヒューマンという語をめぐっては、論者によっていくつかのニュアンスが錯綜している部分があります。そのため本論では、そのあたりを整理することを目指して、ふたつの軸を導入することにしました。

 第一の軸は、現象/社会的現実としてのポストヒューマンに着目したもので、私たちがポストヒューマンという際に、それがいかなる意味において「人間以後」なのかをめぐって設定されたものです。

 そこでは一方で、生物学的な「ヒト」を含め私たちが「実体としての人間」だと見なしてきた枠組みが揺らぐという意味で「人間以後」と見なす場合と、他方では、人間こそが物事の価値や基準の中心にあるとする「準拠点としての人間」という前提が揺らぐという意味で「人間以後」と見なす場合とがあり、両者を区別することができます。

 ここでは、遺伝子治療、エンハンスメント、BMI、メタバース、アバターなどを前者=「実体としての人間」の揺らぎをめぐる問題として、家族となるAI/ロボット、管理や判断を行うAI、汎用人工知能(AGI)、動物の権利などを後者=「準拠点としての人間」の揺らぎをめぐる問題として扱っていますが、重要なのは着眼点の違いですので、具体的な事例を入れ替えて論じることもできるでしょう。

 次に第二の軸は、ポストヒューマンを現象/社会的現実として捉えるというよりも、思想的にどのように位置づけるているのかという点に着目したものです。特に私たち自身がポストヒューマンな存在になること、あるいは世界がポストヒューマンなものとなっていくことに対して、積極的な意味を付与するかどうかをめぐって設定されます。

 このとき、私たちがポストヒューマンな存在になることに積極的な意味を見いだすグループが、トランスヒューマニズムです。例えばシンギュラリティで有名なカーツワイルや、2023年頃にChatGPTをめぐって論陣を張った効果的加速主義(e/acc)などは、ここに位置づけられます。

 他方でポストヒューマンをめぐる多くの議論は、私たちがポストヒューマンな存在になることを必ずしも推進しているわけではありません。そこで本論では、ポストヒューマンに関する思想的な言説一般のことを、トランスヒューマニズムと区別する形で、ポストヒューマニズムと定義します。

 ただしポストヒューマニズムという言葉には注意が必要です。というのも、これを「ポストヒューマン・イズム」と理解するか、「ポスト・ヒューマニズム」と理解するかでニュアンスが大きく変わってくるからです。

 例えばハラリが『ホモ・デウス』で論じた無用者階級論、あるいは人間の絶滅以後の世界を思想的に論じた場合などは、ポストヒューマンについて論じた言説ではあるものの、それを推進しているわけではないので、ポストヒューマニズム(ポストヒューマン・イズム)の事例として位置づけられます。

 他方でポストヒューマニズムを「ポスト・ヒューマニズム」と理解する場合には、特別な意味が付与されることになります。端的に言うと、カントに代表される「道徳的で理性的な主体」としての人間を批判する思想/言説というニュアンスです。

 こうした意味での「人間の終焉」を哲学的に提示したのはフーコーですが、その系譜から、例えば”主体”そのものを否定したり、人間以外の「何ものか」を”主体”と見なす場合など、「近代的な主体=人間中心主義(ヒューマニズム)」を批判する思想的立場は、この文脈ではすべてポストヒューマニズム(ポスト・ヒューマニズム)として位置づけられます。具体的には、フェミニズムからロボット/AIの権利論、動物の権利論、アクターネットワーク論などがこれにあたります。


 さて、以上が本論の概要なのですが、本論を整理するにあたって改めて感じたことがあります。それは、ポストヒューマンを論じた多くの文献が、上記の整理で言うところの「ポスト・ヒューマニズム」から議論を行っていること、その結果ポストヒューマンが「準拠点としての人間」の揺らぎという視点に偏る形で論じられているように感じるということです。

 なかでも多いのは、フェミニズムの文脈でポストヒューマンを論じたブライドッティの枠組みを出発点とする議論ですが、こうなると、ポストヒューマン論とは「近代的主体なきあとの主体をめぐる問題」となってしまい、議論の射程が大きく狭まってしまいます。

 筆者の考えでは、ポストヒューマンという概念が注目されている最大の理由は、私たちの現実的な問題として、これまで自明視されてきた生物としての「ヒト」の枠組みが解体していっていること、またそれを是が非でも推進すべきだと論陣を張る人々が実際に存在する――しかもそれなりに大きな影響力を持つ形で――ことにあります

 つまり、時代が要請しているのは、むしろ「実体としての人間」が揺らぐという現実をどう考えるのか、またトランスヒューマニズムとどのように向き合っていくのかという問題であるということです。

 もちろん「主体」を考察することで見えてくることはたくさんあります。実際私たちは、「人間ならざる何ものか」に注目することによって、これまでの常識的なものの見方が揺らぎ、これまで自明視してきた世界の姿が違って見えることになるでしょう。そしてその過程で、聞こえていなかった声や、見えていなかった抑圧の姿を見聞きすることになるかもしれません。

 しかしそれはあくまで「目なざし」の問題です。ポストヒューマン時代に問われているのは、より現実的な問題だからです。例えば次の問いについて、皆さんならどのように考えるでしょうか?

――もしもある状況において、AIが人間よりも正確な判断を下せるとしたら、私たちはそれに従うべきだろうか? もしもAIが人間よりも効率的に組織を管理できるとするなら、私たちはそれをAIに任せてしまった方が良いのではないか? 

――もしも創造性を含めて、あらゆる能力においてAIが人間と同等か、あるいは人間以上だとするなら、なお人間が存在する価値はどこにあるのだろうか?

――もしもAIやロボットが人々にとって理想の友人や恋人や家族になってくれるのだとしたら、人間はなお、意のままにならない生身の他者と関わっていくことに意味を見いだしうるのだろうか?

――もしも高度に発達したメタバースを通じて、「なりたい私」=アバターとして充実した生が成立するとき、私たちはなお、望んだわけでもないこの身体に特別な意味を見いだしうるのだろうか?

――もしも精巧で十分に美味しい人工肉が手頃に入手できるとして、それでもなお私たちは、敢えて生身の動物を殺害することに正当性を見いだしうるのだろうか?

 つまりポストヒューマン論にとって重要なのは、ただ「主体」を論じることではなくて、その先にあるもの、つまり現実として現れるだろうポストヒューマンな存在、あるいはポストヒューマンな世界に対して、いかなる意味を与えることができるのかまでを論じることだ思うのです。

 私たちが望むと望まざるとに関わらず、私たちはポストヒューマン化が加速していく時代を生きています。そしてそれを避けることはおそらくできないでしょう。そのことを引き受けたうえで、なおそこで現れる新しい〈人間〉とはいかなる存在なのか? そして翻って私たちは結局「何もの」だったのか? そのことがいま、改めて問われているのだと思うのです。

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「総合知」とは何か?

 これまで総合人間学会という場で考えてきた「中間理論」を含む「総合知」について、このタイミングでまとめておきたいと思っていました。

「総合知」について考える――「総合知」の三つの位相としての「全体知」、「実践知」、「中間理論」について

 動画作成も3本目となり、多少は技術も向上したのではないかと思っています。

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「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史

 以前「持続可能性は何を持続させるのか?」という記事を書かせていただいたAndTechさん刊行の『環境配慮材料』に、新しい記事を書かせていただきました。

上柿崇英(2025a)「「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史」『環境配慮型材料』、AndTech、 vol.12、pp.95-109


 やや奇妙なタイトルかもしれませんが、この記事では、これまで筆者が論じてきた環境哲学の枠組みを土台として、私たちが生きる現代社会の抱えている持続不可能性の問題を、「天空城」の比喩というものを用いて論じています。

 ここで、空高く浮遊する巨大な城のことを想像してみてください。その「天空城」は、周囲を城壁で取り囲まれ、城壁の内側には、整備された農地や庭園とともに、大勢の人間たちが暮らしています――。

 私たち人間は、実は自然生態系=「自然環境」のうえに人工的な環境=「社会環境」をつくりだし、しかもそれを、世代を越えて膨張/蓄積させていくという特殊な性質を備えた存在です。

 人間が創出した「社会環境」は、やがて長い年月の末に巨大な人工物の集積物として発展していきますが、重要なことは、それが化石燃料の使用をひとつのきっかけとして、土台となっていたはずの「自然環境」から分離し、科学技術を用いて、加速度的に膨張/蓄積していくシステムへと変貌していったということです。

 本論ではその様子を、かつて大地に根ざしていたはずの都市が、大地から浮遊した「天空城」へと変貌していく姿として比喩的に論じているわけです

 気候変動を含む多くの問題を抱えた私たちは、言ってみれば浮遊状態に限界を感じながらも、なんとかして現状維持を図ろうとしている「天空城」とよく似た状態にあります。

 そして最も確実な問題解決の方法は、「天空城」を大地へと帰還させることとなるのですが、私たちはその選択をできそうにもありません。

 というのも、SDGsにも体現された、現代の人間的な理想が求める、80億人が富裕国並みの物質的・社会的水準を達成するという方向性は、大地への帰還とは逆の方向性であること、そして大地への帰還を果たすためには、人々には等身大の「助け合い」が求められるものの、すでに私たちは便利で快適で、自己決定が保障された生活に慣れすぎてしまっており、いまさら「助け合い」で生活していける自信も、スキルもないと感じているからです
(この問題について関心のある方は、以下の解説記事をご参照ください)。

 大地への帰還ができそうにもなく、浮遊状態のを何とか延命させようともがき、最後は、なし崩し的に科学技術による強行突破という賭けに打って出ようとしている――それが本論で描きだされる私たちの姿です。

 その”賭け”がもたらす人間の未来を、本論では思考実験的に、「「天空城」の要塞化」「惑星の「天空城」化」という形で描きました。そのいずれかが成功すれば、理論的には環境問題そのものが”撲滅”されることとなるでしょう。
 しかし科学技術がそのような未来を約束してくれる保障などまったくありません。その意味において、その”賭け”は依然として、大きなリスクを伴う賭けであると言えるでしょう。

 
 なお、本論では明記していませんが、実は本論は、宮崎駿監督による『天空の城ラピュタ』(スタジオジブリ、1986)を意識して書かれたものでもあります。

 作中の「ラピュタ王国」は、科学技術の力によって「天空城」を築きあげ、強大な軍事力によって地上を支配し、繁栄したとされています。しかしオープニングでは、原因は明かされないながらも、「ラピュタ王国」が滅び、人々が大地へと還っていく姿が描かれています。

 登場人物であるムスカが「ラピュタは何度でも甦る。それが人類の夢だからだ」と主張するのに対して、シータは「自分にはラピュタが滅んだ理由がよく分かる。人は、土を離れては生きられない」と主張します。この作品が描かれてから40年あまり、作品が訴えかけるメッセージは、いまを生きる私たちにはどのような響きを持って受け止められるでしょうか。

 ちなみに、筆者は本論の最後を次のように締めくくりました。

 そしてこうした現生人類の八方塞がりに頭を悩ませるとき、筆者はふと思うことがある。ネアンデルタール人は、4万年前まで現生人類と共存し、火を使い、集団で狩りを行い、装飾品さえ製作していた。つまり私たちとは別種の存在でありながら、「社会環境」を膨張/蓄積させるサイクルを独自に持っていたのである。もしも彼らが絶滅することなく、いまでも生き延びていたとするなら、はたして彼らはどのような世界を築きあげたのだろうか――と。

上柿崇英(2025a)「「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史」p.108 より

 「天空城」はどこへ?――それは自然生態系=「自然環境」のうえに人工的な環境=「社会環境」をつくりだし、しかもそれを、世代を越えて膨張/蓄積させていくという特殊な性質を備えた存在であるところの、私たち人類の運命、そして未来についての問いにほかならないのです。

※noteの方からも全文を読むことができますので、詳しくはそちらもご参照ください。


 「天空城」はどこへ?――環境問題の起源と「社会環境」の人類史行方

はじめに

1.そもそも環境とはなにか?
(1)生物存在から考える、主体と環境の関係性
(2)環境を創造する生物としての人間存在
(3)人工的な環境としての「社会環境」の構造

2.人類史から見る「社会環境」の変遷史
(1)「社会環境」はいつ成立したのか?
(2)農耕社会の成立が意味したこと
(3)化石燃料社会の成立が意味したこと
(4)「定常状態」から環境問題を考える

3.「天空城」の比喩
(1)環境問題とは何であったのか
(2)「天空城」としての人間社会
(3)「天空城」に与えられた選択肢①――「天空城」の帰還を考える
(4)「天空城」に与えられた選択肢②――「天空城」の浮上策を考える
(5)「天空城」に与えられた選択肢③――「天空城」の要塞化と、惑星の「天空城」化

おわりに――「天空城」はどこへ?

  以下、冒頭の部分について転載しておきます。

 人間が環境を改変し、その結果として環境問題が生じていることはよく知られている。しかしそもそも環境を改変するとは何を意味するのか、またそうした行為を行う人間とはいかなる存在なのか?――ここまで考えている人々は少ないかもしれない。

 例えば想像してみて欲しい。ビーバーが河をせき止めてダムを造り、シャカイハタオリが草木を編んでマンションを建てるように、環境を改変するのは決して人間だけではない。
 またいかなる生物も、何かが引き金となって、ときに生態系のバランスを攪乱させてしまうことがある。要するに、環境を破壊するのは人間だけではないのである。

 それにもかかわらず、人間が行う環境の改変や、人間に由来する生態系の攪乱には、やはり他の生物種が行うものとは異なる側面があるように見える。問題は、その違いとは何かである。
 人間には、人工的な環境それ自体を創出し、しかもそれを次世代へと脈々と継承していく特殊な能力が備わっている。実は今日私たちが環境問題と呼んでいる事態には、この人間固有の性質が深く関わっているのである。
 では人間とは、そもそも環境破壊的な生き物であり、気候変動を含む今日の事態は、そうした人間存在による必然的な結果だということになるのだろうか。そうとも言い切れない。なぜなら、700万年の人類の歩みから見えてくるのは、人間と環境をめぐる関係性の劇的な変容であり、それに伴って私たち自身の姿もまた変容を遂げていくドラマだからである。

 本論では、この環境を改変する人間とはいかなる存在なのかという問いから出発し、700万年に及ぶ人類の歩みから環境問題の起源について考える。とりわけホモ・サピエンスが現れ、農耕社会が成立し、化石燃料社会が成立してきたことの意味を、人間と環境の関係性の文脈から読み解き、そのうえで現在の私たちが置かれた状況について、「天空城」の比喩を用いて環境哲学的に考えてみたい(※1)。
 人類が創出した人工的な「社会環境」は、「自然環境」から分離し、肥大化し、やがて化石燃料を動力とした自己完結型のシステムへと変貌した。それはあたかも「自然環境」から浮遊した「天空城」のごときものであり、私たちに問われているのは、まさしくこの「天空城」をどこへ導いていくのかという問題だからである。
 はたして私たちは、この自己完結した巨大なシステムを再び大地に根づかせようとするのだろうか? それとも何とかしてそのシステムの浮遊状態を持続させようと奮闘し続けるのだろうか? ――そのことが問われているのである。

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吉田健彦『メディオームーポストヒューマンのメディア論』を読む:【第1回:後半】メディア技術と人間存在のゆくえ

 以前投稿しました、吉田健彦さんの著作『メディオーム――ポストヒューマンのメディア論』の解説動画【後半】部分を公開しました

 『メディオーム』は、インターネットから、ライフログ、3Dプリンタに至るまで、加速度的に進展していくメディア環境にあって、私たち人間存在のゆくえについて、一人の思想家が徹底的に掘り下げた作品です。

 私たちはどこへいくのか? 「この私」とは何ものか? なぜ人は他者を求めてしまうのか? といった疑問を一度でも持ったことがある方には、ぜひ一度手に取っていただきたい作品です。


 第1回の後半では、「本書の見所」という形で、いよいよ本書の全体像を紐解いていきます。

  • (1)この私とは何ものか?ー他者原理と欲望の二重らせん
  • (2)デジタル化とは何か?ー存在の地図化、あるいは世俗的な神
  • (3)メディオームとは何か?ー存在論的ノイズ、そして他者原理への信頼

 ぜひ覗いてみてください。

note版 吉田健彦『メディオームーーポストヒューマンのメディア論』を読む(第1回)

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吉田健彦『メディオームーポストヒューマンのメディア論』を読む:【第1回:前半】メディア技術と人間存在のゆくえ

 これまでずっとやりたいと思っていた、吉田健彦さんの著作『メディオーム――ポストヒューマンのメディア論』の解説動画(前半)を作成しました。

 『メディオーム』は、インターネットから、ライフログ、3Dプリンタに至るまで、加速度的に進展していくメディア環境にあって、私たち人間の存在のあり方のゆくえについて、一人の思想家が徹底的に掘り下げた作品です。


  • 「あらゆることを実現させてくれる技術を前に、ふと虚無のようなものを感じることはないか?
  • 「誰とも簡単に繋がれる時代に、なぜ多くの人々が孤独を抱えて悩んでいるのか?
  • 「他者と関わることは、なぜこんなにも苦しみを伴うのか?
  • 「それなのに、なぜ私たちは他者を求めてしまうのか?

 以上のような疑問を一度でも持ったことがある方には、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

 さて、第1回では、本書の全体像が分かるように動画を計画しましたが、今回公開する前半部分では、以下の3点が中心的なコンテンツとなります。

  • 本書の問題意識
  • 著者、吉田健彦さんについて
  • メディア技術と私たち―「技術肯定派VS技術否定派」の向こう側

 特に「メディア技術と私たち」では、本書の重要なキーワードの一つである「必然的に異常な社会(必然的異常社会)」についての説明があります。

 ぜひ覗いてみてください。note版もどうぞ。

note版 吉田健彦『メディオームーーポストヒューマンのメディア論』を読む(第1回)

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「環境加速主義」を論じた、はじめての書籍が刊行されました

 環境加速主義について論じた、はじめての書籍が近々刊行されます(第1章担当)。環境加速主義という概念自体、私がそう呼んでいるだけと言えばそうなのですが、ここで環境加速主義として論じているようなテーマを、おそらくまだ誰も真剣に論じたことはない、という意味です。

 上柿崇英(2024b)「【第1章】人類社会と環境の未来――「地球1個分」問題と環境加速主義の時代」『環境と資源・エネルギーの哲学(未来世界を哲学する【第1巻】)』水野友晴責任編集、丸善出版、pp. 1-44

 noteの方に、この論文の概要を解説しましたので関心のある方はリンク先をご覧ください。以下の5つの論点から重要な点を整理しています。

  • (1)脱成長主義の敗北と環境加速主義の勝利
  • (2)環境加速主義の理論的骨格
  • (3)人類史から見た環境加速主義
  • (4)環境加速主義を支える技術領域
  • (5)環境加速主義を支える世界観としての「ヒューマニズム」

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「思念体」と脱身体化

 昨年執筆した「思念体」についての論文がJ-stageより無事に公開されました。


上柿崇英(2024a)「世界観としての「思念体」とその構造――メタバース、ヒューマノイドが拓く新しい世界観と「脱身体化」の未来について」(『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、Vol.18 No.1、130-154)


 この論文の主旨は以下のようなものです。

 これまで私たちは、ネット上のサイバー空間で体験される出来事は、それがいかに精巧なものに見えたとしても、物理世界の現実よりも劣ったものとして認識されてきました。本来の現実はあくまで物理世界の側にあって、サイバー空間上に現れている私は、あくまで物理世界にいる本来の私の仮の姿でしかないといったようにです。


 ところが、VR/メタバースやヒューマノイド、遠隔操作ロボットなどが発達してくると、将来的に私たちは、これとはまったく異質の世界観のもとで生きるようになるかもしれないということです。

 それは、人間の本質を物理世界の身体的な自己にではなく、身体から切り離されたある種の精神体としての自己に見いだすこと、そしてその精神体となった自己が、物理世界の身体やサイバー空間上のVRアバター、遠隔操作のロボットアバターとして現実世界に出現してくると理解される世界観です。


 この精神体のことを、本論では「思念体」(tulpa)と呼んでいます。人間の意識や思考は、依然として、脳を中心とした身体に属しているのですが、それにもかかわらず、ここでは身体が「思念体」を生みだすのではなく、「思念体」が「身体的な私」となって現れていると想像されます。ここでは身体は、数々のアバターと並んで、「思念体」が現実世界に具現化するための、ひとつの選択肢に過ぎないものとして想像されるのです――。

 近年、メタバースやVR、VTuberなどについての研究論文がいろいろと出されるようになりましたが、このあたりの世界観の問題を正面から論じる研究はまだまだ十分ではありません。本論では、こうした世界観が将来的に成立すると仮定したときに何が起こるのか、そのような未来において人間はどのような存在になっていくのかといったことを踏み込んで論じています

 興味がある方は、ぜひ覗いていただけたらと思います。

※note版では本論の執筆の背景について、もう少し触れていますのでこちらもご参照ください※


 反出生主義における三つの実践的不可能性と「無限責任」の問題――心情から読み解く〈信頼〉の不在とその行方

1.はじめに

2.「思念体」が成立する技術的背景
(1)メタバースがもたらすもの
(2)ヒューマノイドと遠隔操作型ロボット
(3)「脱身体化」へと向かう社会

3.「思念体」の性質とその成立条件
(1)新たな世界観としての「思念体」
(2)「思念体」の構造――「クラウドの比喩」と「アカウントの比喩」
(3)「思念体」の成立条件――「複合現実の等価性」と「人格の独立性」
(4)「思念体」という用語、先行研究をめぐって

4.「思念体」とその世界観から浮上する新たな問題圏
(1)「思念体」が直面する制度的な問題
(2)「思念体」は「こうでなければならない自分」の幻想に思い悩む
(3)「思念体」とは、ヒューマニズムである

5.おわりに

  以下、冒頭の部分について転載しておきます。

 人間は、技術を用いてこの世界に新たな環境を創出し、その環境を通じて自らの姿をも劇的に変容させてきた。農耕の成立、化石燃料の使用、インターネットの出現を想起するように、われわれがある巨大な変容に直面する際、その前後で人間社会の様相はまるで違ったものとなる。のみならず、そうした変容に応じて、われわれの世界に対する理解の仕方、すなわち世界観もまた著しく変遷してきたのである。

 想像してみてほしい。太古の狩猟採集民は、後世の人々が、巨大な建造物に何100人も押し込まれて生活していることなど想像することはできなかった。中世の農耕民は、人々が労働のために鋼鉄の塊に乗って何10キロも移動することなど想像することはできなかった。同じように、半世紀前の人々の感性からすれば、われわれが日々「いいね」の数に気にしながら、掌ほどの電子機器を操って、いかなる疑問をも秒単位で解消できると信じていることなど、はなはだ異常でしかなかっただろう。
 したがって50年先、100年先の未来において、現在のわれわれにとって奇異とも思える何ものかが広く常識的であると信じられていたとしても、何ら不思議ではないのである。

 本論が問いたいのは、近年急速な進展を見せているメタバースやヒューマノイドといった「ポストヒューマン時代」の技術的帰結が、仮に新たな世界観の形態をわれわれにもたらすとしたら、それはいかなるものになるのかということである。

 例えばサイバー空間上で体験される出来事は、今日のわれわれにとって、たいてい物理世界の現実よりも劣ったものとして認識されている。そこでは、えられた体験がいかに精巧なものに見えたとしても、本来の現実はあくまで物理世界の側にあって、サイバー空間上に現れている私は、あくまで物理世界にいる本来の私の仮の姿でしかないと考えられている。

 ところが将来われわれは、これとはまったく異質の世界観のもとで生きるようになるかもしれない。それは、人間の本質を物理世界の身体的な自己にではなく、身体から切り離されたある種の精神体としての自己に見いだすこと、そしてその精神体となった自己が、物理世界の身体やサイバー空間上のVRアバター、遠隔操作のロボットアバターとして現実世界に出現してくると理解される世界観である。

 この精神体のことを、本論では「思念体」(tulpa)と呼ぶことにする。人間の意識や思考は、依然として、脳を中心とした身体に属している。それにもかかわらず、人々には、身体が「思念体」を生みだすのではなく、「思念体」が「身体的な私」となって現れていると想像される。ここでは身体は、数々のアバターと並んで、「思念体」が現実世界に具現化するための、ひとつの選択肢に過ぎないものとして想像されるのである。

 確かにこうした世界観は、今日のわれわれにとっては奇異に映る。だが前述のように、人間の未来に確実なことなどひとつもないとするなら、われわれが来たるべき世界への準備として、さまざまな可能性を検討しておくことは十分理にかなっていると言えるだろう。例えば世界観としての「思念体」は、いかなる条件において成立しうるのだろうか。そして少なくない人々がそれを受け入れるようになったとき、そこにはいかなる事態がもたらされるのだろうか。本論では、こうした問題について考えてみたい。

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【講座】『〈自己完結社会〉の成立』を読む

 これまでずっとやりたいと思っていた、単著の内容を解説したコンテンツを作成しました。初めての動画です。継続できるかはまだ分かりませんが、ひとまず第一歩です。

note版 第0講:プロローグーー【講座】『〈自己完結社会〉の成立』を読む

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