Memorandum on Environmental Accelerationism

 先日公開した環境加速主義(environmental accelerationism)についての覚書を英訳してみました(→ Memorandum on Environmental Accelerationism)。

 おそらくこのあたりの話題、まだ誰もちゃんと論じていないと思うのですよね。


Memorandum on Environmental Accelerationism

1.Definition of environmental accelerationism

  • Environmental accelerationism is an environmental thought that seeks to manage, control, and regulate the global ecosystem through the power of science and technology, thereby overcoming the limits of the “one earth amount” of global ecosystem (natural environment) while basically maintaining the current social and economic systems.
  • Environmental accelerationism will grow as one environmental thought in environmental discourses that has seen the downfall of ecological thought and has lost sight of perspectives other than problem solving. And it will eventually become a mainstream in environmental discourses, defeating degrowth and absorbing green growth.
  • We are now living at a turning point in environmental thought, and in a world where environmental accelerationism has triumphed, the problem is how we can talk about the environment in the future.

Memorandum on Environmental Accelerationism
1.Definition of environmental accelerationism
2.What is Environmental Accelerationism?
(1)Overcoming the “one earth amount problem” using science and technology
(2)The purpose of environmental accelerationism is to maximize the embodiment of the values and ideals of human society
(3)Environmental accelerationism promotes inclusion of nature, not destroys it
(4)Geoengineering, space exploration, and human body modification are at the forefront of environmental accelerationism
(5)The relationship between environmental accelerationism and accelerationism itself
3.Environmental accelerationism will defeat degrowth and triumph
4.The essence of environmental accelerationism is the humanism

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環境加速主義についての覚書

 これまで考えてきたことを、最近、環境加速主義(environmental accelerationism)という概念を用いて再構成しようとしています(→ noteバージョン)。

 ここで言う環境加速主義が、本家の加速主義とどのような関係にあるのかという点は、もう少し研究が必要なのですが、今年中に論文に仕上げたいと思っています。


1.環境加速主義の定義

  • 環境加速主義(environmental accelerationism)とは、現在の社会や経済の仕組みを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を管理、制御、コントロールし、それによって「地球1個分」という地球生態系(自然環境)の限界を乗り越えていこうとするひとつの環境思想のことを指す。
  • 環境加速主義は、エコロジー思想が没落し、問題解決以外の視点を見失った環境言説のなかで、ひとつの環境思想として成長する。そして脱成長主義を敗北させ、グリーン成長主義を吸収しながら、やがて環境言説のなかで主流の思想となるだろう。
  • 私たちはいま、まさにそうした環境思想の転換点を生きているのであり、環境加速主義が勝利した世界において、環境について、今後どのように語ることができるのかということが問われている。

2.環境加速主義とは何か

(1)科学技術を用いた「地球1個分問題」の克服

  • 「地球1個分問題」とは、地球生態系がもつ「地球1個分」という有限な収容能力に対して、人類社会がすでにその容量の限界に近いか、その容量を超えてしまっている可能性が高いことを受け――その兆候は、プラネタリー・バウンダリーやエコロジカル・フットプリントといったさまざまな指標によって示されている――私たちがその事態とどのように向かうべきなのかを問う問題のことである。
  • これまで人類社会は、「地球1個分問題」に対処するために、使用するエネルギーや資源の抑制や技術的な効率化を進めてきたが、有限の世界のなかで何かが無限に拡大することは不可能であるように、その試みにはあきらかな限界があると言える――そこで社会経済システムの抜本的な変革を要求してきたのがかつてのエコロジー思想であった。
  • 環境加速主義は、「地球1個分問題」に対処するために、エネルギーや資源の使用抑制や社会経済システムの抜本的な変革という道は選択しない。むしろ現在主流の社会経済システムを基本的には維持したまま、地球生態系あるいは自然環境の方を科学技術を通じて変革しようとする。
  • 環境加速主義は、プラネタリー・バウンダリーを含め、地球生態系の持つ「地球1個分」という限界そのものに介入しようとする。その意味において、地球生態系の要求に人間(あるいは社会経済システム)をあわせていくのではなく、人間(あるいは社会経済システム)の要求に地球生態系を合わせていくことが、環境加速主義のひとつの本質であると言うことができる。

(2)環境加速主義の目的は、人間社会の価値理念の具現化を最大化させることにある

  • 環境加速主義は、現在の裕福な国の人々が享受している物質的な富や、その生活水準に見合った社会の利便性や効率性を維持、拡大させようとする。ただしその最大の目標は、自立、自己決定、自己実現、多様性といった、社会的に共有されている価値理念を最大限に具現化させることである
  • その点において環境加速主義は、単に格差を固定化ないしは拡大させるようなイデオロギーでも、富裕層や産業界の独善的な利益を代表するようなイデオロギーでもない
  • むしろ環境加速主義は、自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念の具現化に立ちはだかるものがあれば、それが地球生態系(自然環境)だろうと、経済社会ステムだろうと修整を加える。その意味において環境加速主義は究極の人間中心主義であるとともに、ある種の変革思想である
  • 環境加速主義は、自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念の具現化を、人類全体に拡大させることを目指す。そのため必然的に、富裕国水準のライフスタイルを全人類が享受できる世界を目指すことになる。その意味において、一連の価値理念を共有しているSDGs(持続可能な開発目標)や、そうした文脈で使用される一般的な意味での持続可能性概念は、環境加速主義と強い親和性を持つことになる。

(3)環境加速主義は自然を破壊するのではなく、自然を包摂する

  • 環境加速主義は、価値理念を具現化させるために、地球生態系(自然環境)に技術的に介入する。ただしそれは、プラネタリー・バウンダリーを含め、地球生態系の持つ「地球1個分」という限界を強く意識し、地球生態系(自然環境)を管理、制御、コントロールするためである。
  • この点において環境加速主義は、かつて地球生態系(自然環境)の論理を無視する形で自然破壊や環境破壊をくり返してきた、開発主義とも、単なる科学技術万能主義とも異なっている。
  • 環境加速主義は、地球生態系(自然環境)を、社会経済システムに適合するものへと上書きし、再編成する。つまり地球生態系(自然環境)を、人間の社会経済システムへと包摂する
  • 環境加速主義が行う包摂(inclusion)というプロセスは、これまで人類が行ってきた農地、庭園、自然保護区を創出する行為を原型としている。これらは人間社会の価値理念に即して、有用であり、美的であり、自然な状態を保守したものであり、いずれも人工的な生態系である。
  • つまり環境加速主義は、地球生態系(自然環境)を、社会経済システムに適合するものとへと再構築し、それによって――高度に農地や庭園や自然保護区が融合したかのような――巨大な人為的な生態系を創造する。そして化石燃料社会が引き起こした自然環境と社会環境の亀裂を和解させ、それによってある種の自然と人間の「共生」さえ実現させる

(4)ジオエンジニアリングと宇宙進出、人体改造は環境加速主義の最前線となる

  • 環境加速主義が、外的環境である地球生態系(自然環境)へと向かうとき、その最初のターゲットは気候システムとなる。現行のジオエンジニアリングは、気候変動対策の補助的なものとして位置づけられているが、環境加速主義は、その位置づけを根本的に変更する。
  • 環境加速主義がジオエンジニアリングを技術的に成功させるとき、気候システムは、都合良く操作、管理、制御可能な対象物、あたかもエアコンの完備されたオフィスのような空間装置として認識される。同様にして、環境加速主義が生態系管理を技術的に成功させるとき、地球生態系は巨大な生物機械として認識される。
  • 宇宙探査は、いまなお人類の探究心を満たすために行われると考えられている。しかし環境加速主義は、宇宙開発の意味合いもまた転換させる。地球生態系が巨大な機械として社会経済システムに包摂されうるのであれば、理論上は、それを地球外部で実行することも可能である。つまり宇宙探査は、環境加速主義によって、巨大な農地=庭園=自然保護区であるところの人工的な生態系を宇宙に創設し、社会経済システムの包摂を宇宙空間にまで拡大させる試みへと変貌する
  • さらに環境加速主義が、内的環境としての身体へと向かうとき、身体は、自身に都合良く操作、管理、制御可能な対象物として変貌する。人工臓器や遺伝子治療から、エンハンスメント(能力強化)、老いの治療、そしてブレイン・マシン・インターフェイスにいたる人体改造技術、そして遠隔操作のロボットアバターやメタバース上のVRアバターの活用などを含んだ脱身体化と呼べる事態は、環境加速主義の一側面、すなわち身体そのものを望ましい価値理念や、社会経済システムに適合するものへと上書きし、再編成する行為として再解釈されるだろう。
  • こうして環境加速主義は、外的環境としての地球生態系を包摂し、その延長線上で宇宙空間を包摂し、ひるがえって内的環境としての身体を包摂する。そしてそれによって、ますます自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念の具現化が促進されることになる。

(5)環境加速主義と加速主義そのものの関係性

  • 今日加速主義(accelerationism)として括られる思想には、いくつかのバリエーションが存在する。なかでも、その中心的な理念のひとつとなっているのは、資本主義社会のもたらす問題を、資本主義社会の変革ではなく、資本主義社会の加速化によって解決しようとする姿勢にある。
  • つまり環境加速主義は、社会経済システムがもたらした「地球1個分」問題を、既存の社会経済システムのさらなる加速化によって乗り越えていくという意味において、環境加速主義として定義される
  • こうした文脈のため、環境加速主義は、反リベラル・デモクラシー、ないしは新反動主義とも呼ばれるN・ランド(N. Land)の右派加速主義よりも、M・フィッシャー(M. Fisher)や「加速派政治宣言」(Manifesto for an Accelerationist Politics)で知られるN・スルニチェク(N. Srnicek)/A・ウィリアムズ(A. Williams)など左派加速主義の側と強い親和性を持つ
  • 環境加速主義の目標は、自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念を最大限具現化させることにある。そのため環境加速主義は、とりわけ右派加速主義が陥りがちな優生主義的な主張とは正面から対立する。しかしその最終地点がシンギュラリティであるとするなら、環境加速主義と右派加速主義においても接点が生じることになるかもしれない。
  • 以上の点をどのように整理するのかということが、特に思想面での学術的な課題となる。

3.環境加速主義は脱成長主義を打ち負かして勝利する

  • 環境加速主義は、環境言説の対抗軸のなかで、地球生態系の要求に社会経済システムをあわせていくことを目指す「エコ・ユートピア」の構想や、成長せずとも存続可能な新しい社会経済システムへの移行を目指す脱成長主義(degrowth)と対立することになる。
  • だが、脱成長主義は二つの理由で人々からの支持をえられることなく敗北するだろう。
  • まず、脱成長主義の目指す社会像を実現するためには、これまで貨幣的な商品やサービスによって実現されてきた福祉を、再びローカルなコミュニティ主義に基づいた、非貨幣的な相互扶助(ケア)に置き換えていくことが求められる。しかしプライベートな時空間を保障され、何でも自己決定できることが自明視されてきた現代の人々には、ローカルな相互扶助(ケア)は荷が重く(「共同の不可能性」)、そうした社会を望みたくても望めない。
  • 次に、人々が望んでいる世界とは、富裕国に準じた物質水準をより多くの人々が享受することができること、また自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念がより多くの人々に具現化されることである。そのために必要となるのは、ローカルな相互扶助(ケア)ではなく、個人化された時間や空間をよりいっそう充実させてくれる高度な社会システムの整備と、その社会システムを支えるための経済成長である。このことは、人々が望んでいる改革が、脱成長主義が目指すようなものではなく、むしろ環境加速主義が目指すようなものに近いということを示している。
  • 環境言説のなかで最もポピュラーなのは、「地球1個分問題」への適応と、経済成長を両立させることができるとするグリーン成長主義(green growth)である。ただし、グリーン成長主義は、前述したSDGsや持続可能性概念と同様に、実は環境加速主義との親和性が高い。
  • なぜなら「地球1個分問題」が示すように、私たちの社会がすでに「地球1個分」の容量に近いか、すでにそれを超過している可能性が高いとするなら、そのゴールを実現させる唯一の方法は、科学技術によって「地球1個分」の限界や容量そのものを操作し、人為的に制御、拡張していく以外にないということになるからである。
  • つまり脱成長主義は人々から支持されず、グリーン成長主義はなし崩し的に環境加速主義へと吸収される。そして結果的に、環境加速主義が勝利することになる。
  • こうして21世紀の環境思想、ないし環境言説は、好むと好まざるとに関わらず、環境加速主義が勝利した世界が訪れることを想定し、いまから準備を進めておくべきである。

4.環境加速主義の本質はヒューマニズムである

  • 環境加速主義を突き動かす根本原理は、ここでいうやや特殊な意味でのヒューマニズム(humanism)であると考えることができる。
  • 一般的な意味でのヒューマニズムとは、ルネッサンス期以降の西洋世界で形成された、人間の可能性と尊厳を重視する思想であると言えるが、ここでのヒューマニズムには、そこに以下のような人間に対する強力な信念が含まれることが強調される。
  • すなわちヒューマニズムには、人間は理性の力を通じてさまざまな拘束から自分自身を解放することができる、そして人間の使命とは、そうした力を駆使することで、思い描いた理想の社会をこの地上に具現化していくことである、とする非常に強力な信念が含まれている。
  • この信念は、歴史的には、ユダヤ=キリスト教の伝統的な人間観が、ギリシャ哲学の影響のもと変質することによって誕生した。しかしその信念の血脈は、宗教的な教義の影響力が低下する、18世紀のリベラリズムや啓蒙思想を経由してなお、そして今日のSDGsや、環境加速主義が重視する価値理念においてさえ受け継がれている。
  • ヒューマニズムは、現実の外部に存在する理念に即して、現実の方を作り替えようとする――その意味において「現実を否定する理想」と言うこともできる。環境加速主義は、そうしたヒューマニズムの原理が、地球生態系や、宇宙空間や、内的環境としての身体へと向かった結果であると考えることができる。
  • 要するに、環境加速主義とはヒューマニズムそのものである。したがって、もしも私たちが環境加速主義を批判しようとするなら、私たちは同時にヒューマニズムそのものをも批判しなければならなくなる。
  • 逆に私たちが、ヒューマニズムに体現される上記の信念や、自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念を無条件に信奉するなら、私たちは必然的に環境加速主義へと向かうことを肯定しなければならなくなる。
  • このジレンマは、環境加速主義をめぐるひとつの未解決問題である。
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環境思想の限界

 以前、ある一般紙に依頼されて久々に環境関連の原稿を書きましたが、今回はそれを発展させて、本格的な学術論文を執筆しました。

上柿崇英(2023)「「エコ」なき時代の環境思想とその行方――エコロジー、人新世、ポストヒューマンが映し出す「地球1個分」問題と「脱生体化」問題について」『環境思想・教育研究』、第16号

※現在は注を除く本文と参考文献のみnoteで読めるように設定しています

 この論文で筆者が言語化したかったのは、気候変動をはじめとした現実的な問題は歴然として存在するにもかかわらず、それを語るための思想が欠落しているように見えること、あるいは環境問題を思想として語ること自体が、どこか完全に行き詰まっているように見えるという感覚についてです。

 ”哲学”の論文として書いていることもあり、一般の方が読んでも、なかなか意味が伝わらないかと思いますので、以下4つのポイントから補助線となるような解説文を記しておきたいと思います。


○解説①:「思想なき環境の時代」について

 まず、本論では「思想なき環境の時代」という表現をしていますが、本論の前提となるのは、かつて環境について語ることは、思想を語ることと密接に関係があった、ということです。

 つまり環境について語ることは、単に個別具体的な問題を解決するということにとどまらず、ひとつひとつの実践が、”いまの社会”、”いまの世界”とは異なる、もうひとつの社会を築いていくためのひとつのステップである、というニュアンスを含んでいた、ということでです。

 環境に配慮すること、例えばわざわざ環境負荷の少ない商品を選んだり、細かい分別作業に気を遣ったりするというのは、とても大変なことであるはずです。しかし、一見そうした微力で地味に見える作業であっても無駄ではない。それは最終的には、環境問題を生みだしてしまう現在の社会とは本質的に異なり、環境問題を生みだすことのないもうひとつの社会を実現するための確かな一歩につながっていると、かつては思えたということです。

 端的に言えば、これが「環境について語ること」が、同時に(あるべき社会やあるべき世界を考え、志すという意味において)「思想について語る」ということでもあった、ということです。

 しかしこうしたニュアンスは、環境の言説のなかでは完全に失われていると感じます。

 もちろん私たちは、いまでもカーボンニュートラルについて語り、プラスチック問題について語っているでしょう。それは未来社会について語ることではないのでしょうか。しかし、ここにはやはり大きな隔たりがあるのです。というのも、今日の言説は、もうひとつの社会について語っているように見えて、実際には、気候変動やマイクロプラスチックといった具体的な問題解決以上の意味を含んでいないからです。

 別の言い方をすれば、今日の環境言説は、問題解決それ自体が目的となっている、と言い換えることができます。つまり、何か核心的な技術が登場するなどして、目に見える問題を除去することさえできれば、個別的な問題を引き起こしている共通の根というものには関心が払われない、問題の背後にある、私たちの生き方や社会構造や世界観について問う必要はないと考えられているからです。

 気候変動であれば、気候が変動することが問題なのであり、例えばCO2貯留技術などが大成功を収めるなどして、仮に気候が変動しないのであれば、現在の化石燃料に依存した社会構造について考える必要はない、プラスチック問題であれば、例えば代替プラスチックが発明されるなどして、仮にマイクロプラスチックという問題が除去されるのであれば、現在の消費生活について考える必要なくなる、と想像されているいうことです。

 とはいえこのように言うと、次のように感じる方がいるのではないでしょうか。いや、それの何が問題なのか、というようにです。

 筆者は、このように感じる方が意外と多いのではないかと思っています。そしてこの感覚こそが、実は本論で、環境に思想は必要ない、「思想なき環境の時代」というものに人々は何ら不都合を感じていない、と述べていることの真意なのです。

「なぜなら「思想なき環境の時代」において、多くの人々は、現実問題としてそこに何ら不都合を感じていないということ、より端的に述べれば、環境危機と対峙するにあたって、そもそも思想など必要ないというのが、この時代における本当のトレンドだからである。」


○解説②:「地球1個分問題」と人間の未来について

 環境について語ることは、あくまで気候変動やマイクロプラスチックといった問題が存在するためで、それ以上でも以下でもない。仮に気候が変動しなくなり、プラスチックがマイクロプラスチックを生みださないとするなら、何も問題はないのではないか。

 本論では、この主張に異議を提示します。そしてその理由は、気候変動だろうと、マイクロプラスチックだろうと、一連の問題は、より根本的な問題から派生した末端の問題に過ぎないこと、仮にそれらが除去されたとしても、それらの背景にあるより根本的な問題は未解決のままであるからだと主張します。

 その根本的な問題とは何でしょうか。本論では、そのことを「地球1個分」問題と呼んでいます。「地球1個分」問題とは、私たちの社会がすでに「地球1個分」の容量を超過している可能性が高いということ、またそのことを受けて、この先私たちは、その容量に収まる社会を目指すのか、あるいはその容量の限界を超越していく社会を目指すのかという問題です。

 ホモ・サピエンスは、自然環境のうえに人為的にもうひとつの環境をつくりだすことができる特殊な能力を備えています。それを社会環境と呼ぶとするなら、私たち人類は、常に自然環境と、人為的に創出された社会環境という二重の環境のなかで生きていく生物だと言えるでしょう。

 問題は、人類の創出する人為的な社会環境は、世代を追うごとに蓄積され、膨張し、とりわけ化石燃料文明が成立して以降、幾何級数的な成長を遂げてきた結果、「地球1個分」の容量を超えてしまった可能性が高いということなのです。気候変動も、マイクロプラスチックも、この根本問題が形を変えて現れてきたものだと理解できるのです。

 ここで私たちに残されている道は、究極的に言えば、1)膨張を続ける社会構造を変革して、人類が「地球1個分」のなかで生きていける社会を目指していくのか、あるいは2)地球そのものを人類の足枷と見なして、技術の力で克服し、人類を地球に制限されない存在としてバージョンアップさせていく道を目指すのか、という2択しかありません。

 そのどちらを目指すのか、これはきわめて思想的な問題だと言えるでしょう。つまり環境について語ることは、「地球1個分」問題が未解決である以上、本来であれば必然的に、私たちがいかなる社会を目指すべきなのかという、思想的なニュアンスを含まざるをえないはずなのです。ところがこの視点が、現在の環境言説からは欠落しており、多くの人々はそのことに疑問さえ抱いていない。このことこそが問題の核心であると理解するのです。

 ちなみに筆者は、この問題を論じるにあたって、1)「地球1個分」に収まる社会を目指すグループを脱成長主義、2)「地球1個分」の限界を超越していく社会を目指すグループを環境加速主義(この用語は筆者の造語で本論には出てきませんが、今後はこの用語を使って表現していこうと思っています)という形で整理できると思っています。

 そして筆者の見立てにおいては、思想的には脱成長主義が敗北し、環境加速主義が勝利すると考えています

 脱成長主義は、なぜ敗北するのでしょうか。脱成長主義の弱点について、それを批判する人々はたいてい際限のない人間の欲望や、資本主義の温存について語ります。しかし本論では、そのどちらにでもなく、根本的には人々がそれ(脱成長主義が想定するもうひとつの社会)を望んでいないからだというところに求めます。

「とはいえ脱成長には未解決の問題がある。それは脱成長が目指す社会とは、つまるところバイオリージョンに根ざした自律的でローカルな共同体主義であり、それは結局エコロジー思想が目指したものと変わらないからである(23)。つまり脱成長を支えるライフスタイルは、想像している分には素晴らしいが、いざ実践するには多大な困難を乗り越える必要があること、また大多数の人々にとっては、現実問題として、そのような生活を必ずしも望んでいないという、エコロジー思想が行き詰まったのと同じ問題を抱えているということなのである(24)。」

 脱成長を実現させるためには、人々は否が応でも生活の一部を生身の相互扶助によって実現することが求められます。「助け合い」と聞けばイメージは良いでしょうが、そのような密な人間関係を基盤に生きていく世界を現代人は望んでいないし、それを十全に達成していく能力においても不足しているということです。

 このことはあまり指摘されてはいないのですが、筆者は最も根源的な問題のひとつであると考えており、遡れば、それがかつてエコロジー思想が敗北した原因のひとつであったとも考えています。

 イメージで例えるなら、「コンビニのおにぎり」で成立する世界と「手作りのおにぎり」で成立する世界があるとして、人々はどちらの世界を望むのか。人々は想像している分には「手作りのおにぎり」の素晴らしさを語るでしょうが、「コンビニのおにぎり」の安心感と気楽さを知ってしまった以上、実際問題となると、「手作りのおにぎり」を食べ合う世界に耐えられず、「コンビニのおにぎり」で成立する世界を選択するということです。

 では、環境加速主義が手放しで良いのかというと、これはこれでしっかりと考えなければなりません。

 まず、そもそも環境加速主義が”成功”するのかどうか、つまり人類が科学技術を使って地球という足枷から本当に解放されるかどうか、このことには何の確証もないということがあげられます。環境加速主義を信じて邁進した結果、結局は破滅の未来が待っていたということは十分に考えられれるからです。

 他方で、仮に環境加速主義が成功した場合についても、その先に待っている未来が、本当に(現在の私たちから見て)素晴らしいものであるかどうかということについて、しっかりと考えておく必要があるでしょう。

 この点については、本論ではかなりの紙面を割いて論じています。具体的には、ジオエンジニアリングポストヒューマンメタバース「思念体」といった観点(「脱生体」問題)と絡めながら、「カプセル社会」「脳人間」といったキーワードを用いて、いくつかの思考実験を試みていますので、興味のある方は本論を覗いてみてください。


○解説③:SDGsや持続可能性概念は、なぜ環境思想とは呼べないのか

 ところで、環境問題に関心がある方々は、ここまで読むあいだにひとつの疑問を抱いていたかもしれません。それは、本論が現代を「思想なき環境の時代」と断言する一方で、これまでの説明のなかでSDGsや持続可能性概念について触れた箇所がないからです。

 SDGsや持続可能性概念は、それに馴染んだ方々から見れば、私たちが未来社会を語るための大切な拠り所であり、その意味においてひとつの環境思想であると感じる方々がいるのではないかと思います。

 しかし本論では、SDGsや持続可能性概念を環境思想とは呼べないという立場に立っています(SDGsや持続可能性概念に含まれる矛盾や問題については、本論の土台となった別の原稿「持続可能性は何を持続させるのか」の方が詳しく説明されていますので、こちらもご参照ください)。

 というのもSDGsは、結局のところ現代のポリティカルコレクトネス、つまり社会通念として強制力を伴う事項を単純に寄せ集めただけのスローガンに近く、そこで語られている持続可能性概念を掘り下げていくと、つまるところは、現在の私たちの経済的な繁栄、生活様式の発展を持続させるということ以上の思想的な深みを備えていないからです。

 もちろんSDGsに掲げられている目標は、どれも必要なことであることには変わりません。「誰ひとり取り残さない」、そのこと自体に異論はありません。しかしそこで語られているのは、例えば私たちが個人として、あるいは組織として何らかの行動を取る際に、それがジェンダーや格差、マイノリティに配慮したものとなっているのか、それと同程度の意味において、環境に配慮したものとなっているのか、一度立ち止まって考えてみようということでしかありません。

 経済成長はもちろん大事ですが、貧困や格差の解消も大事、環境保護も頑張ろう、「全部大事だね」というのが、SDGsや持続可能性概念が現在表象しているメッセージです。

 これまでの議論を見てきた方なら気がつくでしょう。ここで言っている「環境保護」というのは、気候変動を含め、環境という主題を個別的な問題解決の次元でのみ捉えたものに過ぎません。つまり目に見える問題を除去することさえできればそれでよいのであって、個々の問題を引き起こしているより本質的な問題についての視点は欠落しているということです。

 その意味においては、一連の概念こそが、むしろ「思想なき環境の時代」を体現しているとも言えるでしょう。それどころか、「地球1個分」問題を想起するのであれば、SDGsや持続可能性概念は、思想的には環境加速主義のグループに属するとも言えるのです。

 そもそもSDGsや持続可能性概念は、思想として捉えるなら、その中核にあるのは、「いかなる人間も政治的、社会的に自由であり、また繁栄の果実が平等に行き渡るべきだ」とするリベラリズムだと理解する方が適切です。ここでは環境問題は、リベラルな世界の理想を実現する過程のなかで立ち塞がっている阻害要因の一つでしかないわけです。

 実際、SDGsや持続可能性概念が想定している理想社会とは、現在の生活様式や社会構造や世界観を本質的には保持したまま、80億人の「誰ひとり取り残さず」、全人類が最富裕国水準の生活が送れることに他なりません。

 ところが「地球1個分」問題が示唆していたのは、80億人にこれほど多くの格差が内包した状態でさえ、すでに私たちは「地球1個分」の容量を超えてしまった可能性があるということでした。

 ならばSDGsや持続可能性概念の理想を実現するためには、私たちに残されているのは、地球そのものを人類の足枷と見なして、技術の力で克服し、人類を地球に制限されない存在としてバージョンアップさせていく、環境加速主義以外にありえません。

 ここで改めて主張しますが、筆者は思想的には脱成長主義が敗北し、環境加速主義が勝利すると見立てています。私たちはこのことの意味をよくよく考えておく必要があるのです。

「ここからわれわれが読み取れることは、持続可能性の言う“持続(sustain)”とは、環境対策にリソースを割きつつも、最富裕国を含めた全世界で可能な限りの経済成長を持続させ、途上国の人々を富裕国並みの生活水準に引き上げていくこと、端的に言えば“いま”を持続させることでしかないということである(14)。」


○解説④:学問としての環境思想の存在意義について

 最後の論点となるのは、こうした環境言説の現状にあって、学問としての環境思想は何をしてきたのか、という問題についてです。

 まず、本論で言及している「環境プラグマティズム」というのは、1990年代に英語圏で提唱されたもので、端的に言うと、学術としての環境思想は、「自然に内在的な価値はあるのか」「人間中心ではない(自然中心、生命中心、生態系中心)倫理原則は成立しうるのか」といった抽象的な論争を棚上げして、現場の科学者や政策立案者に直接的な影響を与えられうる、実用的なアプローチを採用すべきだという考え方です。

 実際にはもう少し複雑なのですが、少なくともこの思想が日本に紹介された2000年代には、筆者を含め、こうした側面こそがこの思想の革新性であると受け止められていたと理解しています。

 当時はエコロジー思想の影響力が残存しており、環境問題の元凶は、人間が自然や生命を自らの発展のための道具として捉えてきたことにあるとの主張が広く共有されていました。そのため「人間のため」ではない、「自然のため」「生命のため」「生態系のため」になされることが、「人間のため」になされることに勝りうる可能性をいかにして理論的に証明することができるのか、ということが学術的にも重大な問題でした。

 ところがこうした抽象的な論争を繰り返したところで、個別的な問題は悪化するのみで解決するわけではない、むしろ問題解決に寄与できるような環境思想(とりわけ環境倫理学において)があるはずだ、というのが「環境プラグマティズム」の出発点だったわけです。

 こうした主張は、「人間のため」か「自然のためか」といった極端な二元論に疲弊していた2000年代の環境思想の学界に対して、良い意味で刺激を与えました。特に日本の環境思想の学界では、環境社会学を掲げるグループによってフィードワークに基づいた環境倫理論が独自に発達しており、「環境プラグマティズム」はそうした土壌にもよくマッチしていたと言えるでしょう。

 こうした背景により、日本における「環境プラグマティズム」は、哲学者や倫理学者が現場に入り、現場の知を集め、市民を巻き込んだステークホルダーの合意形成に寄与していくアプローチとして受容された、というのが筆者の理解です。

 もちろん、こうした試みが市民社会に貢献したことは間違いありません(このことは、筆者がよく知る吉永明弘先生の業績からも明かです)。しかし筆者は、現場の実践は、もともと実証主義的な方法論を磨きあげてきた社会科学が得意とするところであって、人文科学であるところの哲学や倫理学には、人文科学ならではのやるべきことがほかにあるのではないか、という思いが消えませんでした。

 そしてそれから15年あまり後の2019年になって、「環境プラグマティズム」の代表的な著作が訳出されました。もちろん岡本祐一朗先生や田中明弘先生をはじめとした同書の翻訳本は、筆者のような研究者には大変ありがたいものでした。しかし気になったのは、先生があとがきで書いておられた以下の点です。

「残念なことに、日本の場合その名前すら知られていないのである。(「環境プラグマティズム?何それ?」)ハッキリ言って、日本では「環境」に対する考え方が、50年前からほとんど進んでおらず、しかもその自覚さえないのである。比喩的に言えば、二週遅れて走っているのに、その遅れに気づかず走っているようなものだ。」A・ライト/E・カッツ『哲学は環境問題に使えるのか――環境プラグマティズムの挑戦』岡本裕朗/田中朋弘監訳、慶應義塾大学出版会、2019年、p.419

 筆者はこの一文を読んで驚きました。筆者が院生時代を過ごした2000年代から20年あまりの間でさえ、筆者の肌感覚では環境に対する人々の捉え方は大きく様変わりしたからです。

 例えばいま現在において、環境問題について語る際、それが「人間のため」なのか「自然のため」なのか、などといった問題にこだわっている人など、どれだけいるのでしょうか。筆者の認識では、時代は「プラグマティズム」どころではなく、さらにその先を行っているのです。

 これまで見てきたように、今日の環境言説において最も強力な主流派と言えるのは、環境加速主義にほかなりません。問題解決や実用的なアプローチが重要であることは当然として、それ以上に科学技術を用いて「地球1個分」問題を克服すること、人類全体のバージョンアップを通じて、経済的な成長と発展を際限なく持続させること、これこそが環境言説の中心に位置づくだろうものだからです。

 環境加速主義が既定路線となった世界において、環境問題は、どうすれば技術的に解決できるようになるのかという尺度のみによって測られるのであって、問題が生じること自体の意味は不問とされます。そこでは自然科学者は問題の除去可能性について追求し、社会科学者は技術の社会への適用可能性について追求します。そうなると、哲学や倫理学といった人文科学の居場所はどこにもありません。それでも多くの人たちは何ら不都合を感じることはないでしょう。

 おそらく私たちは、すでにそうした世界を生き始めているのかもしれません。環境思想に存在意義があるとするなら、こうした現状認識から始めなければならないでしょう。本論で主張しているのは、こうしたことなのです。


「エコ」なき時代の環境思想とその行方――エコロジー、人新世、ポストヒューマンが映し出す「地球1個分」問題と「脱生体化」問題について――

1.はじめに

 環境思想は、現在新しい転機を迎えている。そのことを物語るのは、「持続可能な開発目標」(SDGs)を中心に環境言説が再び賑いを見せているにもかかわらず、そこにはそれを支える思想としての軸が欠落して見えることである。

 かつて環境言説は、きわめて思想的な側面を備えていた。そこではエコロジー思想――環境危機の根源にあるものを人間中心主義と理解し、その克服のためには、人類が自然世界の秩序を尊重し、その一部分として分相応な生き方を目指すべきだとする――が強い影響力を保持していたからである。しかしエコロジー思想は故あって衰退した。それ以来われわれは、「思想なき環境の時代」を迎えることになったのである。

 こうした時代において、環境思想には何が求められるのだろうか。かつて環境プラグマティズムは、環境倫理の学説が科学者や政策立案者に届かなかったことへの反省として、現場に寄り添う実用的なアプローチが必要であると主張した(1)。しかし事態はよりいっそう深刻だとは言えないか。

 例えば近年、環境思想の周辺では“人新世”のタームが流行し、“脱成長”が再び注目されている。しかしそうした試みは、またもや肩透かしに終わる可能性が高い。

 なぜなら「思想なき環境の時代」において、多くの人々は、現実問題としてそこに何ら不都合を感じていないということ、より端的に述べれば、環境危機と対峙するにあたって、そもそも思想など必要ないというのが、この時代における本当のトレンドだからである。

 以上の問題意識を受けて、本論ではまず、「思想なき環境の時代」が成立してくる経緯について考察する。具体的には、そもそも環境思想とは何かという問いから出発し、環境主義とエコロジー思想の違い、そしてエコロジー思想が衰退した原因について分析したうえで、なぜ今日の持続可能性概念やSDGsが環境思想としての潜在力を持ちあわせていないのかということについて明らかにする。

 加えて後半では、こうした「思想なき環境の時代」において、改めて環境思想として本質的な問いがどこにあるのかについて、人新世、脱成長、ジオエンジニアリング、ポストヒューマンといったキーワードを手がかりに考察していく。ここから見えてくるのは、エコロジー思想が提起した過去の問題が、「地球1個分」問題、そして「脱生体化」問題という形で未解決であるということ、加えて今日のわれわれが、「地球1個分」問題を「脱生体化」によってなし崩し的に乗り越えていこうとしているという現状である。

 もしもわれわれが、この先変わらずこの道を進んでいくというのであれば、もはや環境思想の居場所などどこにもあるまい。そこでは人為的環境による自然環境の完全な制圧こそが唯一の道標となり、その試み自体の意味を問うことなど必要ないということになるからである。環境思想が迎えた転機とは、実のところ、このように環境思想の存在意義そのものが問われるという事態なのである。

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全文を公開しました(『〈自己完結社会〉の成立』)

 残念なことに、2023年11月末をもって、本書の刊行元であった農林統計出版が廃業してしまいました・・・。

 それを受けまして、同署のウェブサイトに、上巻、下巻あわせて50万字にもなる同書の全文をPDF等で公開しました。せっかく書いたものが何らかの形で後世に残るものであって欲しいと願います。

 残された200部の扱いも考えなければなりません。院生さんや研究者の方で紙媒体として読んでみたいという方がいらっしゃれば、お譲りしますのでご連絡ください(kyojin(アットマーク)schs.gendainingengaku.org)。

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反出生主義と「無限責任」の心情

 反出生主義について1年前に執筆した原稿がようやく刊行されました。
 

 

上柿崇英(2023b)「反出生主義における三つの実践的不可能性と「無限責任」の問題――心情から読み解く〈信頼〉の不在とその行方」『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、Vol.17 No.1、pp.77-100

 
 反出生主義とは、「この世に出現するいかなる生も害悪であり、したがってわれわれは新たな生をこの世に生みだすべきではないし、人類など早々に絶滅した方が良い」という主張を普遍的な道徳原理として掲げる思想で、ベネターの『Better Never to Have Been : The Harm of Coming into Existence』(2006)を通じて世界的に知られるようになりました。

 本論もベネターについては触れていますが、切り口はかなりユニークではないかと思っています。反出生主義について書かれた論考の多くは、反出生主義の理論的枠組みの正誤に焦点が当たりますが、本論の場合そうではなく、人々がなぜ反出生主義に惹かれるのかという心情の方に力点をあてているからです。
(追記:また、先行きの不透明さや格差といった経済問題に絡めて論じる方もいますが、本論はそのアプローチとも異なります。詳しくは注の22を参照)

 今回の論考を通じて、「無限責任」という概念に行きつくことができました。これは本来一人の人間が背負えるはずのない責任を、それでも一人で負わねばならないと思ってしまう現代人が抱える強迫観念のことです。

 私たちは、生きている限り、誰かに影響を与えずにすむことも、また自分の人生の全責任など背負いきれるはずもないのに、誰も苦しめず、誰も傷つけず、誰にも迷惑をかけまいとして焦燥してしまっています。未来を正確に予測することも、未来を意のままにできることもないはずなのに、生まれ来る誰かの人生の全責任をたった一人で背負わなければならないと感じてしまっているわけです。

 本論が主張するのは、この「無限責任」という歪な世界観=人間観こそが、実は人々を反出生主義へと誘う結果となっているのではないかということです。つまり「無限責任」が要求する、そもそも実現不可能な“あるべき人間”の理想に駆り立てられ、「そんな責任など背負えるはずがない」、「そんな人間が新たな命など生みだす資格はない」と追いつめられた人々が、「この世に出現するいかなる生も害悪であり、そもそもわれわれは新たな生をこの世に生みだすべきではない」と聞いて、どこか救われた気がしてしまう。そうした私たちの世界観=人間観に潜む病理こそが、真に問題にされるべきではないのか、ということです。

 本論では、

 「反出生主義者は、決して無責任な人々なのではない。おそらく誰よりも責任を感じるからこそ、そして真面目に生きようとするからこそ、人々はかえって反出生主義者になる。世界や人間を心底憎んでいるから、人々は反出生主義者になるのではない。おそらく誰よりも世界や人間を祝福したいと願い、その高すぎる理想に屈折したからこそ、人々は反出生主義者になるのである。」(上柿 2023b: 92-93)

 「したがってわれわれの社会が、この先も互いの生の責任を分け合おうとすることなく、〈信頼〉を育くむことを怠り、ありもしない自立の幻想に浸り続けるのだとしたら、人々はますます反出生主義者に転向せざるをえないだろう。」(上柿 2023b: 93)

 と書きました。しかしここでの〈信頼〉については、実は、迷いもあるのです。私に反出生主義を考えるきっかけを与えてくれたある方が言ってくださったように、「そのような〈信頼〉など、人類は一度として手にしたことなどなかったのではないか」と、私も心のどこかで、ふと思うことがあるからです。私もまた、「無限責任」に苦しむ現代人の一人なのかもしれません。
 


反出生主義における三つの実践的不可能性と「無限責任」の問題――心情から読み解く〈信頼〉の不在とその行方

1.はじめに
 1)反出生主義の定義について
 2)ベネターの反出生主義と非対称性の問題
 3)反出生主義への反論や誤解

2.反出生主義の実践的不可能性
 1)「苦痛除去の不可能性」という問題
 2)「選択の不可能性」という問題

3.反出生主義の背景にあるもの
 1)「反出生主義的心情」の所在
 2)「無限責任」の牢獄と「自立の不可能性」という問題
 3)〈信頼〉なき世界のゆくえ

4.おわりに

  以下、冒頭の部分について転載しておきます。

反出生主義における三つの実践的不可能性と「無限責任」の問題――心情から読み解く〈信頼〉の不在とその行方

 この10年,にわかに注目を浴びている思想がある。それは「この世に出現するいかなる生も害悪であり,したがってわれわれは新たな生をこの世に生みだすべきではないし,人類など早々に絶滅した方が良い」と考える,反出生主義(anti-natalism)と呼ばれる思想である。もちろん世界を憎んだり,自らの生誕を呪ったり,生まれ来る人々を憐れんだりすることだけなら太古の時代からあっただろう。しかしこの思想が新しかったのは,それを単なる個人的な主張の次元に留めておくのではなく,普遍的な道徳原理として再構成したところにある。つまり理性を正しく行使すれば誰もが必ず同じ結論に到達するはずで,そうならないのはその人自身に問題がある,と主張しているのである。

 この反出生主義は,学術的にはD・ベネター(D. Benatar)のBetter Never to Have Been : The Harm of Coming into Existence(2006)を契機として広がっていった(1)。しかし本論が注目したいのは,それが学術界を超えて少なくない人々の共感を密かに呼んでいることである。それはなぜなのだろうか。その背景にあるものとは何なのだろうか。このことを考察するのが本論の目的である。

 本論では,まずベネターが提示した反出生主義の基本的な枠組みについて確認し,その問題点について考える。その際特に着目したいのは,この思想を現実に落とし込むことによって生じる不可能性の数々である。反出生主義の枠組みは,思考実験としては成功しているものの,それは純粋に理念の世界の産物でしかない。本論では,このことを「苦痛除去の不可能性」,「選択の不可能性」,「自立の不可能性」という三つの実践的不可能性の観点から独自に分析し,この思想がいかに人間的現実と乖離した前提から構築されているのかということについて見ていこう。

 だが本論にとって重要なことは,それでも少なくない人々がこの思想に惹かれてしまう根源的な理由である。本論では,反出生主義に共鳴する人々の心情に着目することによって,その背景に,自身のあらゆる行動の全責任を無制限に負うべきだとする「無限責任」の思考が潜んでいることを指摘したい。反出生主義者は自身が意図せずして誰かを不幸にしてしまうことを恐れているのであり,自身の身勝手な理由から,将来不幸になるかもしれない何ものかを生みだすことが許されるのかと苦しんでいる。だが,考えてもみてほしい。そのような責任など,そもそも一人の人間が背負えるようなものだったのだろうか。問うべきことは,そもそも現実的には想定しがたいはずの責任を,それでも負うべきだと感じてしまう,われわれの歪んだ「世界観=人間観」なのである。

 本論では,こうした「無限責任」という名の幻想が,歴史的にはつい最近になって現れたものに過ぎないことについて確認する。そしてわれわれの社会においては,実際に互いの生の責任を分け合うための〈信頼〉が欠落していることに目を向けたい。もしもわれわれが,これからも社会全体として〈信頼〉を育むことができず,ありもしない自立の幻想に浸り続けるのだとしたら,人々は「救い」を求めて,ますます反出生主義に傾倒せざるをえないだろう。

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「思念体」の研究(続その①)――メタバース、アンドロイド、サイボーグ化が拓く新しい世界観

 先日noteで公開した「思念体」に関する問題意識を共生社会システム学会というところで発表してきました。スライドも公開しますので、興味のある方は覗いてみてください。

 


 上述のnote記事は、以下のリンク先から読むことができます。

「思念体」の研究(序論)――メタバース、アンドロイド、サイボーグ化が拓く新しい世界観とその問題意識

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「思念体」の研究(序論)――メタバース、アンドロイド、サイボーグ化が拓く新しい世界観とその問題意識

 最近、これまで〈自己完結社会〉論で「思念体」や「脳人間」という概念を使って述べてきたことを、「「思念体」の研究」という形でひとつの研究テーマとして構想できないかと考えています。

 まず、ここでの「思念体」とは、AI、サイボーグ、メタバース、アンドロイドなど、21世紀の技術的環境によって生みだされることになる想像上の人格のことを指しています。

 おそらく現在の私たちの世界観においては、人間の本質はこの物理的な身体にあり、そうした身体的な私がインターネットやVR空間といった「仮想世界」に関与して行くと想像されています。
 つまり「物理世界」にこそ“本当の現実”や、”本当の私”が存在しているのであって、インターネットやVR空間を含んだ「非物理世界」がどれほど精巧に見えようと、それは本来の現実ではなく、またそこに存在する私は、あくまで「物理世界」にいる本来の私の影のようなもに過ぎない、といったようにです。

現在の世界観

 「「思念体」の研究」が想定しているのは、科学技術が進んでいくと、こうした世界観に、ある種の逆転現象が生じるのではないか、あるいは、こうした世界観とは異なるまったく新しい世界観が成立してくるのではないか、ということです。

 それは、人間の本質が、身体から切り離された精神体としての「思念体」にあって、その「思念体」としての私が、「物理世界」の身体やロボットアバター、あるいは「非物理世界」のVRアバターという形で、現実世界に具現化するという世界観です。
 ここでは「物理世界」と「非物理世界」が現実として同等の価値や意味を持つものとして理解されます。そして身体的な私の存在が、数あるさまざまなアバターのうちの一つに過ぎないとして理解されているところがポイントです。

「思念体」を中心とした新しい世界観

 下のリンク先の記事では、以上の問題意識のもと、そうした世界観がなぜ成立しうるのか、またそうした世界観が私たちにどのような問いを投げかけるのか、ということについて書いてみました。

 よろしければ読んでみてください。

「思念体」の研究(序論)――メタバース、アンドロイド、サイボーグ化が拓く新しい世界観とその問題意識

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【書評】『〈自己完結社会〉の成立』その②

 筆者が学生時代から大変お世話になった倫理学者の亀山純生先生(東京農工大学名誉教授)が、拙著『〈自己完結社会〉の成立』に関する書評を執筆してくださいました(「書評・レビュー」ページから他の書評もご覧いただけます)。

【書評】亀山純生「現代日本の〈閉塞社会〉転換への斬新な問題提起――上柿崇英著『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み』(農林統計出版、2021)を読む」『唯物論研究ジャーナル 2023』、唯物論研究協会

 本書で行われている問題提起の核心部分からはじまり、今後期待される課題に至るまでを、幅広くかつ的確な形で言及してくださっています。

  特に、本書の特徴と意義として、

  1. 人間存在のあり方に注目して、21世紀日本で本格的に姿を現わしたAI技術による高度情報・消費社会を独自に〈自己完結社会〉の成立と特徴づけたこと

  2. (本書で提起された)〈生の自己完結化〉と〈自己完結社会〉は戦後日本社会が理想としてきた〈自立した個人〉による自由な個人主義社会の歴史的完成態だと明らかにしたこと

  3. 〈自己完結社会〉の成立によって顕在化した生の矛盾と生の苦しみに注目し、それ故に〈自己完結社会〉の脱却の必要を示すとともに、その焦点としてその背後の近代的世界観=人間観の転換を、全く独自の仕方で提起すること

 という3点を抽出していただきつつ、それが戦後日本の社会理論や現代哲学研究の立ち位置とどのような関係にあるのかについて述べてくださっています。従来の学術的タームと本書をつなぐ貴重な記述となっています。

  また、本書から浮かびあがる課題として、

  1. 有益な議論を展開するために、すでに共有化されている既成の哲学・社会哲学の概念に対する比較検討にもとづいた概念の彫琢がいっそう求められること

  2. 〈自己完結社会〉自体の否定すべき現実を、単に世界観の問題として論じるにとどまらず、具体的な社会的転換と社会構造の変革としてどのように展開させるかという点が本書には欠けており、その点が惜しまれること

  3. 社会変革という視点に立った場合、すでに「自己完結」した人間は〈無限の生〉の人間観を全面的に肯定しているため変革の主体にはなりえない、すると社会変革は不可能という結論となり、議論が行き詰まるという矛盾をどう考えるのか

  4. 世界観の転換として〈有限の生〉の世界観を強調したところで、結局は、社会構造の転換なき諦観主義・心理転換主義と同じであるとの批判にはどのように応答ができるのか

 という点を提起してくださっており、いずれも本書を考えるうえで重要な指摘だと思います。

 本書の意図をこれほど深く読み込み、学問的な見地から論じてくださった文献は、本書評がはじめてのものだと思います。時間をかけて本書評を執筆してくださった亀山先生には、ここで改めて感謝を申し上げます。


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ポストヒューマン時代とヒューマニズム

 単著『〈自己完結社会〉の成立』を送り出して以来、同書の内容が現代の思想状況や、現代思想のキーワードとどのような関連性を持つのかについて執筆を続けています。

 今回執筆したのは、以前ポストヒューマン時代についての諸々でご紹介したテキスト(「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い)の続編で、情報技術、ロボット/人工知能技術、生命操作技術がもたらすポストヒューマン時代について、ヒューマニズム自己決定の理念、ミクロな権力との関連について取りあげたものです(以下の表紙やリンク先から全文をご覧いただけます)。

  
上柿崇英(2023a)「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の亡霊――「ポストモダン」/「反ヒューマニズム」状況下における「自己決定する主体」の物語について【テキスト版PDF】『総合人間学』、総合人間学会、第17号、 pp.34-63)

 本論で言う「ヒューマニズム」とは、人間は、自らを取り巻く世界を作り替えることによってこそ幸福になれる人類は、理性の力を通じて自分自身を解放し、それによってあるべき本来の形、究極の普遍的な何者かに到達するといった、「普遍的な人間」というものに投影された強力な信念、ある種の「信仰」のことを指しています。

 こうした「ヒューマニズム」は、人文科学の主流の考えにおいては、すでに時代遅れなものと考えられてきました。例えばポストモンダンの立場からは、「ヒューマニズム」は「大きな物語」にすぎず、ある種の幻想にすぎなかったと理解されます。あるいはフェミニズムやポスト植民地主義の立場(「反ヒューマニズム」)からは、そうした人間の理念が、男性中心主義やヨーロッパ中心主義の産物にすぎず、そもそも普遍的な人間を想定すること自体が問題であるという形で理解される、といった形です。

 ところが今日、科学技術を通じて現れつつある「ポストヒューマン」的な何ものかは、人間そのものを作り替えることによって、私たちをバージョンアップさせていくことになります。さまざまな社会的な要請を意識した上で、より「あるべき人間」に接近していくのです。このことは、実のところ、究極の「ヒューマニズム」を意味するのではないか、別の言い方をすると、実のところ私たちは「ヒューマニズム」の外部に出たことなど一度もなくて、いまなお結局は”普遍的な人間”という夢を追い続けているのではないか、というのが本論の大枠の話です。

 実はこの話題は、今日の「自己決定」の問題とも深く結びついています。まず、ポストモダンや「反ヒューマニズム」が人文科学の主流となる時代を迎えて以来、私たちは”絶対的な何ものか”を共有することがきわめて難しくなりました。そうした時代状況において、唯一人々に共有可能だと思われる原則こそが、実は「自己決定」の原則なのであり、そうした意味において「自己決定」は、ポストヒューマニズムの倫理を象徴するものとも言えるからです。

 そして今日の「自己決定」の理念の中心にあるのは、一言で言えば、「存在論的抑圧」を最小化し、「存在論的自由」を最大化させること、言い換えると、自身が何ものであるのかを不本意な形で決定されず、自ら定義できること、さらにはそのことによって不利益を被ることなく、またその過程で不本意に加入されることもないこと、と理解することができると思います。

 ポストモダンの時代において、特定の絶対的な「正しさ」は主張できないかもしれませんが、こうした意味での「自己決定」が高められ、保障されることについては、誰もが異論はないはずだ、ということに他なりません。

 ただし、この原則を推進するのであれば、私たちは必然的に、人々が「ポストヒューマンな存在」になっていくことを肯定しなければならなくなります。なぜなら私たちの「自己決定」を阻む最大の障壁とは、「意のままにならない身体」や「意のままにならない他者」によって生みだされる根源的な不平等や根源的な抑圧であって、「ポストヒューマンな存在」になることは、まさしく私たちがそうしたものから解放されることを意味しているからです。

 「ヒューマニズム」の批判からでてきたはずの「自己決定」の原理が、「ポストヒューマン時代」になって、まさしく「自己決定」の原理を尊重するがゆえに、「ポストヒューマン」という形の”普遍的な人間”へと至る――ここには「ポストヒューマン」という形の究極の「ヒューマニズム」を実現する、というおそるべき転倒があるわけです。

 なお、この論文を通じて筆者が表現したかったこととして、もうひとつ、一連の私の議論とフーコー流の権力論(ミクロな権力をめぐる議論)の違いを示すという目的がありました。

 周知のようにM・フーコーは、国家権力に代表されるマクロな権力とは区別する形で、人間の関係生にあまねく遍在し、私たちに何が正常であり、何が正常でないのかを悟らせるような何ものか、あたかも自身が望んでいるかのように欲望を喚起させ、人々に自ら進んで自己点検するように仕向けるような何ものかとして、ミクロな権力の概念を提示しました。わかりやすく言えば、人々を抑圧する規範や標準や境界線の問題です。

 私の議論では、社会システム(〈社会的装置〉と表現されます)への依存が生みだす人々の生きづらさが問題になりますので、しばしばフーコー流の権力論と同じ枠組みで議論していると誤解されることがあるのです。

 フーコー流の権力論はさまざまな形で応用されていますが、筆者が一番気になるのは、そこで特定のミクロな権力がもたらす抑圧の構造を明らかにする(可視化する)のみならず、しばしば「あらゆるミクロな権力から解放されることによってこそ人間は真に自由になる」、「人間は、少しずつでも着実にミクロな権力から解放されなければならない」との暗黙の理念を前提として議論がなされているように見えることがあるということです。

 確かに私たちは、古い規範を解体し、規範の形を時代に合うよう作り替えていく必要があります。しかしその目的は、あくまで境界線を引き直すことであって、ミクロな権力それ自体から人々が解放されることではありません。言い換えると、人間社会から何かを定める規範や標準や境界線それ自体が消えることなど決してありません。多様性の時代に問われているのは、こうした人間を規定する何ものかそれ自体と、私たちがどのように折り合いをつけていくのかということだからです。

 もしも私たちがミクロな権力それ自体からの解放を目指すとするなら、私たちは決して実現することのない理想を追い求めて、かえって終わりのない苦しみの自縄自縛(「現実を否定する理想」「無間地獄」)に陥るでしょう。ところが「ヒューマニズム」のみならず、「自己決定」の理想も、「ポストヒューマン時代」の科学技術も、そうした自縄自縛の方向性へとますます私たちを向かわせているのです。ここに「ポストヒューマン時代」を考えるべき重要な問題がある、というのが筆者の立場に他なりません。

 以上、見所について概説させていただきましたが、興味を持ってくださった方はぜひ一度ご覧いただければと思います。

「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の亡霊――「ポストモダン」/「反ヒューマニズム」状況下における「自己決定する主体」の物語について

 1.はじめに――前稿からの継承と本稿の問題意識
 (1)前稿までの議論の確認
 (2)本稿の目的と課題

 2.「自律した主体」と「ヒューマニズム」
 (1)「自律した主体」の成立
 (2)「自律した主体」をめぐる挫折と葛藤

 3.「自己決定する主体」と「反ヒューマニズム」
 (1)「大きな物語」の終焉と、「人間」の終焉
 (2)「反ヒューマニズム」がもたらした「理念の間隙」
 (3)「反ヒューマニズム」の出口戦略としての「自己決定する主体」
 (4)根源的不平等と「存在論的自由」の不可能性

 4.「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の再来
 (1)「トランスヒューマニズム」と「ポストヒューマニズム」
 (2)「思念体」としての「ポストヒューマン」と、「ヒューマニズム」の再来
 (3)「ヒューマニズム」の亡霊

 5.おわりに――今後の議論に向けて

  以下、冒頭の部分について転載しておきます。

(2)本稿の目的と課題

 以上の議論を踏まえたうえで、本稿が試みたいのは、こうした逆説を孕んだ「自己決定」をめぐる人間的理想に再び焦点をあわせ、それがいかなる思想的な経緯のもとで成立してきたのかを探ってみることである。そして本稿では、その分析をもとに、「ポストヒューマン時代」が問いかけている問題について別の角度から迫ってみることにしたい。

 手がかりとなるのは、「ヒューマニズム」から「反ヒューマニズム」への移行という思想史上のパラダイムシフトである。もともと「自己決定」の概念は、「自律した主体」や〈自立した個人〉の概念と深く結びついており、それらを下から支えていたのが「ヒューマニズム」であった。「自律した主体」とは、人々が無知や迷信、権威や権力といった外力から解放され、自ら思考し、自ら判断できる存在になるということを意味している。またそのためには、人々が一定の経済的な独立性と、外力に抗う精神性を求められるため、そうした主体は〈自立した個人〉とも呼ばれてきた。そして人間とは、理性を用いてさまざまな桎梏からおのれ自身を解放し、「あるべき人間(社会)」に向かって絶えず進歩し続ける存在であること、その確信こそが「ヒューマニズム」であり、「自己決定」の概念は、こうした枠組みによって支えられてきたのである。

 ところが、今日われわれが用いている「自己決定」の概念には、こうした枠組みからはいくつかの点で隔たりがある。ひとつは、その主体像が徹底して価値中立的かつ個人主義的なものとなっていること、もうひとつは、その力点が“意志のあり方”というよりも、“存在のあり方”をめぐって語られるようになっていることである。端的に言えば、自身が何ものであるのかを自ら定義できること、それによって不利益を被ることなく、その過程で不本意に介入されることもない、それが現代的な意味での「自己決定」の特徴なのである。

 こうした「自己決定」概念が形作られてきた背景には、おそらく「ポストモダン」の到来と、「ヒューマニズム」への批判として登場した「反ヒューマニズム」の存在が深く関わっている。そこでの問題提起とは、第一に、人類の進歩は普遍的な真理などではなく、ひとつの「大きな物語」にすぎなかったということ、第二に、われわれが「主体」と呼んできたものは、関係性に張りめぐらされた「ミクロな権力」による訓練の結果、換言すれば、不可視化された強制や排除の産物にすぎなかったかもしれないということ、第三に、そこでの「人間」とは、実のところ五体満足で健康なヨーロッパの白人男性でしかなく、そもそも普遍的な「人間」などというものを想定すること自体が間違っていた、といったことである。

 しかし「ポストモダン」や「反ヒューマニズム」の方法論には、大きな問題が含まれていた。それは、この新しい潮流が「ヒューマニズム」を打ち倒した代わりに、われわれが向かうべき指針までをも解体させてしまったことである。ただし、ここにはひとつだけ“出口”が存在していた。それは、問題の核心部分を「存在論的な抑圧」――諸個人の存在のあり方を“かくあるべき”と抑圧、強制するもの――の存在に定め、「存在論的な自由」――諸個人が自身のあるべき姿を自ら定義することができる――の拡大こそがわれわれのなすべきことであると理解することである。そうすれば、「反ヒューマニズム」の問題提起と矛盾することなく、われわれは万人にとって受け入れ可能なビジョンを手にすることができるからである。

 こうして、前述した価値中立的かつ個人主義的な「自己決定」の概念が成立してきた。ところがこの新しい人間的理想こそが、まさしく「ポストヒューマン時代」の到来によって、新たな矛盾を顕在化させつつあるのである。実は「自己決定する主体」のビジョンには、別の問題が含まれていた。それはいったん「存在論的自由」の獲得という目標が定位してしまうと、その理想は徐々に拡大解釈されていき、最終的には「意のままにならない他者」そのもの、「意のままにならない身体」そのものに由来する根源的な不可能性や根源的な不平等に行きついてしまうことである。ここで改めて注目すべきは、「ポストヒューマン時代」の技術の潜在力とは、まさしく「意のままにならない他者」から、そして「意のままにならない身体」からわれわれを解放するという点にあったことである。つまり「ポストヒューマンな存在」になることは、「自己決定する主体」のビジョンと完全な整合性を持っている。ならばその人間的理想を実現するためにこそ、われわれは「ポストヒューマンな存在」になるべきではないだろうか――。こうしたわけで、われわれは前稿で導かれた主張にまたもや直面することになるのである。

 しかし以上の分析を経てきたわれわれには、前稿では踏み込めなかった新たな逆接の存在に光をあてることができるだろう。それは、いまや技術を通じて出現しつつある何ものかが、あらゆる存在から浮遊し、純化された精神体のごときものに収斂していくということ、その意味において、それはある種の普遍的な人間に向かっていくという逆説である。このことは何を物語っているのだろうか。本論では、その意味について明らかにしていくことにしよう。

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「書評・レビュー」のページを公開しました

 拙著『〈自己完結社会〉の成立』に関する「書評・レビュー」ページを公開しました。このページでは、同書について取りあげてくださった文献、書評、レビューなどについてご紹介していくつもりです。

 第一弾は、環境哲学/メディア論の研究者で、現代人間学の共同研究者でもある吉田健彦さんが書いてくださった書評です。

【書評】吉田健彦「哲学の再生に向けた果敢な試み――上柿崇英『〈自己完結社会〉の成立』を読む」『環境思想・教育研究』、環境思想・教育研究会、第15号、pp.108-110

 本書の最終的な到達点が「世界観=人間観」の捉え直しにあるという点を汲み取ってくださり、また現代社会や人間存在について論じるうえで、本書が敢えてひとつひとつの基礎概念から独自に整備していったことの意図、そして本書といわゆる「疎外論」の違いについて言及してくださっています。

 「疎外論」とは、簡単に述べますと、現代社会の特定の問題(病理)を分析するにあたって、資本制社会の構造や科学技術の影響など、何らかの外的な要因によって、人間本来の形(性質)が「歪められた」ことによって生じていると考えるアプローチです。

 本書の主題となる〈自己完結社会〉が、社会の変容に伴って「人間本来の形(性質)が歪められたことによって生じた病理」であると見なせるのかどうか――このことは学術的には重要な論点で、同書ではこの問題について【下巻:補論二】「学術的論点のための五つの考察」で詳しく述べています。

 著者の立場は、〈自己完結社会〉がある種の「病理」的側面を備えているとはいえ、人間の存在様式は常に変化し続けるものであり、「疎外論」のように「人間本来の形(性質)が歪んだ」という説明にはならないというものです。

 本書では、人間は、生物存在としての「ヒト」の枠組みに明確に規定されつつ、その生物学的な本性のうちに、人為的な「社会環境」を媒介として、自らの存在様式を変容させることが含まれていると解釈されます。そのため「人間本来の形(性質)」というもの自体が想定できない、ということになるわけです。(ただし、現代の人間が置かれた状況に問題にすべき「病理」がない、ということにはなりません。このあたりのニュアンスは、吉田健彦さんの言う「必然的異常社会」の説明が参考になると思います)

 加えて重要なのは、本書では、「人間本来の形(性質)」を想定するアプローチが、かえって「あるべき人間(社会)」の幻想を生みだし、その理念に現実世界が振り回されるという事態を問題視しているという点です。この問題は、本書では「現実を否定する理想」、ないし〈無限の生〉の「世界観=人間観」が抱える問題として【最終考察】の中心的なテーマとなります。こうした意味からも、本書のアプローチは「疎外論」とは区別して読んでいただきたいと思っております。


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