『〈自己完結社会〉の成立』の「用語集」を公開しました

 以前から準備していたコンテンツで、ディスカッションページに拙著『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(上巻/下巻)』(上柿崇英/農林統計出版/2021年)』の重要語句について解説を加えた「用語集」を公開しました。

 本書では、「〈生〉の舞台装置」「不介入の倫理」「担い手としての生」といったオリジナルの概念が数多く出てきますので、特にそれぞれの概念の関連性が分かるように意識して書いています。ただ、最初はシンプルに書いていたのですが、後になるほど細かくなって分量も増え・・・といったいつもの調子になっています。少しでも多く方が本書に関心を持ってくださると幸甚です。

 以下、いくつか例を挙げておきます。


〈生の自己完結化〉 【せいのじこかんけつか】

「われわれが高度化した社会システムへの依存を深めることによって、結果的に目の前の他者、物理的に接触する生身の人間に対して、直接的な関わりを持つ必然性を感じられなくなっていく事態を指している。……こうした人間のあり方のことを、本書では〈生の自己完結化〉と呼んでいる。」 (上巻 ⅰ-ⅱ)

 〈自己完結社会〉の成立に伴う具体的な現象のひとつで、〈生の脱身体化〉と対になる概念。より具体的には、人々が「官僚機構」「市場経済」「情報世界」によって構成される〈社会的装置〉への依存を深めることによって、生身の他者に対して、直接的な関わりを持つ必然性を感じられなくなっていく事態のこと。

 実際には、すべての人々が〈社会的装置〉を介してつながりあい、依存しあっているものの、人々にはその関係性が不可視化されており、それによって人々には、互いに互いを必要としていないように感受される。こうした心理的側面を通じて、生身の他者が負担やリスクとしてしか感じられなくなり、直接的な関係性を維持、構築していくことへの多大な困難(〈関係性の病理〉)を引き起こすことになる。

 他方で、まったく同一の現象が、互いの生を分離可能なものとして認知させ、〈ユーザー〉としての「自由」と「平等」が拡大するという形で、人々に「あるべき社会」の実現をもたらすという根源的な矛盾が含まれている。


「時代」 【じだい】

「だがここにこそ、人間が生きることのひとつの宿命がある。それはいかなる人間も、時代において生まれ、時代において生き、そして時代において死んでいくという、人間存在の根源的な定めに他ならない。時代において生まれるとは、自身の望みとは関係なく、人間はある時代に生まれてしまうということを意味する。また時代において生きるとは、生まれた時代に規定されながらも、人間は眼前の現実のなかで格闘し、より良く生きようとするということを意味する。そして時代において死ぬとは、命が尽きるそのときでさえ、人間は自らを規定する時代そのものからは決して逃れられない、ということを意味しているのである。」 (下巻 50)

 単なる歴史区分とは異なり、人間世界を形作る大きな流れや文脈のことで、いかなる人間存在も例外なくそれに規定され、命尽きてなおその規定から逃れられないもののこと(〈有限の生〉の第二原則=「生受の条件の原則」および、〈有限の生〉の第五原則=「不確実な未来の原則」)。

 例えば幕末の志士らが露国に勝利する帝国日本の姿を知らなかったように、大正知識人らは、米軍基地によって安全を保障される戦後日本の姿を知らなかった。瓦礫のなかで生き延びた人々が、隆盛する「経済大国」の姿を知らなかったように、札束にまみれたバブル紳士たちは、「失われた20年」に苦しむこの国の惨状を知らなかった。

 同様にして、内地へ帰るという思いを胸に、遠く戦地で息絶えた兵士、腹を空かせた家族のためにと、煤だらけになって働いた炭坑夫、豊かで文化的な暮らしを求め、「カイシャ」に全生活を注ぎ込んだ企業戦士、インターネットの可能性を信じて、システム開発に挑んだエンジニア、その誰一人として、自身の生きた〈生〉の先に、〈自己完結社会〉が聳えていることなど知るよしもなかっただろう。

 ここうした事実には、「時代」において生まれ、「時代」において生き、そして「時代」において死んでいくという人間的〈生〉の残酷さが体現されている。だがこのことは、現代を生きるわれわれ自身にもあてはまる。われわれもまた、この〈自己完結社会〉が台頭していく時代のもとで生まれ、この時代のもとで生き、そしてこの時代のもとで死んでいかなければならないからである。

 われわれもまたおそらく何かを「誤る」のであり、いつの日か必ず時代そのものによって裏切られ,取り残されるときがくる。しかしそのことを覚悟しながら、なお、人は何かを選択し、決断しなければならない。

 そこで問われてくるものこそ、「意のままにならない生」(=〈有限の生〉)の現実を前に、何かを背負い、必死に生きようとしてきた(そして生きていくだろう)人間存在そのものへの〈信頼〉「人間という存在に対する〈信頼〉」)である。


「脳人間」の比喩 【のうにんげんのひゆ】

 「すばらしき「脳人間」の世界――それは究極の〈無限の生〉、「意のままになる生」が実現した世界である。身体を捨てて脳だけになった人間は、自律的に制御された〈社会的装置〉に、チューブと電極を介して文字通り接続される。……この「脳人間」の物語は、はたしてわれわれに何を訴えかけているのだろうか。それは究極の〈自己完結社会〉に至って、われわれは確かに、あの理想と現実とをめぐる「無間地獄」の苦しみから解放されうるということである。」 (下巻 125)

 〈無限の生〉の敗北を超克するために、いっそのこと〈生の自己完結化〉〈生の脱身体化〉を極限まで推し進め、「意のままにならない他者」「意のままにならない身体」からの完全解放を試みる思考実験のひとつで、「通販人間」(生産活動を自動化させ、必要なものをすべてドローンで自宅に届けてもらうことによって、社会生活をバーチャル空間(メタバース)内で完結できるようになった社会)から一歩進んで、身体を捨てて脳だけになり、完全自動化された生命維持装置と情報機器に直接接続されることで、「人間的〈生〉」を完全にバーチャル空間へ移行させた社会のこと。

 そこでは事実上、人々は生まれながらの身体的な特徴や属性(〈有限の生〉の第二原則=「生受の条件の原則」)のみならず、臭い、汚い、きつい、痛いといった身体的なわざわい、怪我、病、障碍、老い、衰弱といった身体的な苦痛(有限の生〉の第一原則=「生物存在の原則」)から解放され、さらにはバーチャル空間内で自分好みのバーチャル人格とだけ〈関係性〉を構築することで、嫌な人間、馬の合わない人間との〈共同〉(〈有限の生〉の第三原則=「意のままにならない他者の原則」第四原則=「人間の〈悪〉とわざわいの原則」)からも解放される。

 こうして人々は、究極の意味において〈自立した個人〉「自由な個性の全面的な展開に到達し、恒久的な「自己実現」を通じて、ついに悲願であった「こうでなければならない私」を手に入れることになる。

 とはいえ、脳自体もまた「存在論的抑圧」になりうることを考えれば、「脳人間」は最終的には脳さえ捨てて、情報機器に漂う完全な「思念体」となるだろう。

 ここにおいて「〈ユーザー〉としての生」が最高潮に達し、人々は本当の意味において「自由」になる(「存在論的自由」)。そこではどのような存在になることも可能で、どのような刺激や快楽であっても望めば手に入る。ところがそうした「意のままになる生」の極地にあって、「脳人間」たちは最初のうちこそ楽しめるが、やがて体躯と虚無とに耐えきれなくなり、やがて自分自身で生命維持装置の電源を切ることになる(「自殺の権利」)。

 〈存在の連なり〉から自立し、「この私」だけの意のままになる世界にあって、人間は何ものかになることも、何かを実現することにも、つまりは生きる意味そのものを見いだせなくなるからである。


 

 

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noteはじめました

 告知が遅くなりましたが、執筆系SNSのnoteを始めました。

 現在はまだコンテンツは少ないですが、職場で行っている授業をベースに環境哲学に関わる読み物を掲載したり、これまで論文として公開してきたものをわかりやすい形に直して掲載していこうと思っています。

 また、拙著『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み』(農林統計出版)』についても、本書の内容を分かりやすい読み物として講座形式で掲載していく他、図表やキーワードの解説を行っていく予定です(特設サイトの方でも、平行してコンテンツを準備中です)。

 よろしければぜひ覗いてみてください。


 直近では、先日こちらでもご紹介した、「持続可能性は何を持続させるのか――「地球1個分」をめぐって環境哲学的に考える」『環境配慮材料』(vol.4)AndTech、pp.77-86)について、許可をもらったので全文読める形で掲載していいます。

 こちらも興味のある方は覗いてみてください。

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地球1個分をめぐって

 久々に環境関連の原稿を書きました。今回は、持続可能な開発目標(SDGs)が流行化するなかで、あらためて「持続」とは何かについて書いたものです。

 私たちが持続可能性について語る際、しばしば、それが「何の」持続なのか、その持続によって「何を」目指しているのか曖昧なままに、概念が一人歩きをしている側面はないでしょうか?? 持続可能性やSDGsと言っておけば良いという風潮はないでしょうか??

 ここでは、私たちにとっての「持続」が、「いま」の持続を意味すること、その「持続」が目指すものとは、人々が持続的に振る舞う「システム」を構築することになっている、ということをいろいろな皮肉を込めて書いています。

 
「持続可能性は何を持続させるのか――「地球1個分」をめぐって環境哲学的に考える」

 はじめに
 1.「地球1個分」とは何か

  (1)人新世とエコロジカル・フットプリント
  (2)「地球1個」では足りないのか
 2.私たちにとって“持続”とは、“いま”の持続のことを指している
  (1)イースター島の寓話
  (2)脱成長という選択
  (3)惑星改造という選択
 3.持続可能性は、人々が持続的に振る舞う“システム”を構築することを目指していく
  (1)AIがもたらす、持続可能なシステムという未来
  (2)大破綻
  (3)「カプセル社会」のユートピア、「脳人間」のユートピア
 おわりに――〈有限の生〉の「世界観=人間観」を考える

(『環境配慮型材料』、AndTech、 vol.4、pp.77-86)

 以下、ご参考までに序文(はじめに)の部分を転載しておきたいと思います(なかなか一般的な方が手に取るのは難しいかもしれませんが、比較的平易な文体で書かれています)。

 
 持続可能な開発目標(SDGs)を中心として、時代はいま第3次環境ブームのただなかにある。そのため読者も、持続可能性やサステイナビリティといった言葉を耳にしたことがあるだろう。SDGsとは、ミレニアム開発目標(MDGs)の後継として、2015年に国連で採択された国際的な行動計画のことを指し、そこでは環境問題や貧困問題などを念頭に、人類が2030年までに達成すべき17の目標と169のターゲットがあげられている。

 とはいえ読者は、次のように考えたことはあるだろうか。私たちは持続可能性が大事だと主張するが、はたしてそれは“何を”持続させることを指しているのだろうかと――。例えばそれは、人類の持続を指しているのだろうか、それともいまある自然生態系の持続を指しているのだろうか。またそれは、いまの生活水準を持続させ、いまある成長や発展を持続させることを目指しているのだろうか。それとも人類だれもが分け隔てなく先進国水準の生活を送れることを目指しているのだろうか。あるいは私たちのあり方が根本的に持続不可能であるとの認識から、現在とはまったく異なるあり方を目指しているのだろうか。実は、この問いに答えることはかなり難しい。というのも、今日語られる持続可能性の実質においては、貧困や格差の解消が大事、経済成長も大事、環境保護も頑張ろう、「全部大事だね」といった具合に、とにかく社会通念上良しとされていることが無造作に詰め込まれ、その本質がどこにあるのかが見えにくくなっているからである。

 本論では、この「持続可能性とは何を持続させるのか」という問いから出発し、いくつかの思考実験を交えながら環境哲学的に考えていく。そして今日の持続可能性概念が映しだす未来、つまり私たちがいかなる世界とへ向かっているのかについて考えてみることにしよう。

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ポストヒューマンとリベラルな価値体系、〈無限の生〉をめぐる問題との関連性

 単著『〈自己完結社会〉の成立』を送り出して以来、同書の内容が現代の思想状況や、現代思想のキーワードとどのような関連性を持つのかについて執筆を続けています。

 これは昨年の秋に書いた原稿ですが、今回は、リベラルな価値を擁護しようとする人々と、それを否定しようとする新反動主義と呼ばれる人々をめぐって、その対立軸にポストヒューマンをめぐる問題がどのように絡んでいるのかということに焦点を当てています。

 一般的に新反動主義(N・ランドなど)が「ポストヒューマンな存在」(=トランスヒューマン)になることに対して好意的であることはよく知られています。ですが、その反対側に位置づけられるリベラルな価値体系の擁護者についても、その枠組みの行きつく先は「ポストヒューマンな存在」(=トランスヒューマン)であるという点では変わらないということ、またその背景には、人間の現実を否定して、「あるべき人間(社会)」の理念によって現実を塗り替えようとする、より根源的な形而上学(これを私は〈無限の生〉の「世界観=人間観」と呼んでいます)がある、ということを指摘するのが本論の趣旨となっています。

 
「ポストヒューマン時代」における「世界観=人間観」の問題について――現代科学技術とリベラルな価値体系、「人間性」をめぐる諸問題」

 1.はじめに
 2.「ポストヒューマン時代」の到来

  (1)「技術的ユートピア」と「技術的ディストピア」の狭間で
  (2)「人間性」への問い
 3.リベラルな価値体系をめぐる対抗軸
  (1)リベラルな価値体系を否定する新反動主義
  (2)リベラルな価値体系を擁護する「ポストヒューマニズム」
 4.〈無限の生〉の「無間地獄」
  (1)リベラルな価値体系の否定者と擁護者にまたがる奇妙な共通点
  (2)近代を支える〈無限の生〉の「世界観=人間観」
  (3)「現実を否定する理想」と「無間地獄」
  (4)「ポストヒューマン時代」における〈無限の生〉
 5. おわりに――〈有限の生〉からの再出発

『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、 Vol.16 No.1、pp.213-232))

 以下、サマリーを掲載しておきます。これが論文として成功しているかどうかはいまいちなのですが、テーマとしては重要であると考えています。


 現代科学技術の進展とともに、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となり、われわれはこれまで自明とされてきた「人間」の概念が通用しなくなる「ポストヒューマン時代」を迎えている。

 本論では、「ポストヒューマン時代」の本質を探るために、新反動主義やポストヒューマニズムといったリベラルな価値体系をめぐる対立に着目する。というのもその対立の根幹は、西洋近代に成立した「人間性(humanity)」をめぐる異なる理解の仕方にあり、「ポストヒューマン時代」とは、まさしくその「人間性」の基盤となるものを技術的に操作していく時代のことを指しているからである。

 奇妙なことに、リベラルな価値体系の否定者も、擁護者も、技術によって自らを改変し、自らが「ポストヒューマンな存在」となることを肯定する。それは両者が、いずれも現実の外側にある「あるべき人間(社会)」という理念から出発し、現実そのものを理念によって塗り替えるべきだとする、〈無限の生〉の「世界観=人間観」を共有しているからである。

 しかし〈無限の生〉の「世界観=人間観」は、「あるべき人間(社会)」を絶えず求め、現実の人間(社会)を絶えず否定し続けなければならない。そしてその延長として、われわれはますます身体を捨てて「ポストヒューマンな存在」となることが望まれる。だがそれは「無間地獄」であるがゆえに、決して終わることがない。「ポストヒューマン時代」に求められているのは、理念から出発する〈無限の生〉ではなく、あくまで現実から出発する〈有限の生〉の「世界観=人間観」である。すなわち人間が人間である限り引き受けなければならないものとは何か、その存在論的な原点に立ち返り、その意味に再び目を向けるのである。真の意味での近代批判は、ここから始まるだろう。 
 
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ポストヒューマン時代についての諸々

総合人間学会シンポジウム

 先日、総合人間学会という場所で、シンポジウムの登壇者として報告を行いました。

 タイトルはポストヒューマン時代が揺がす人間らしさ――思想・哲学の視点からということで、この間書いてきた、情報技術、ロボット/AI技術、生命操作技術等の現実が人間存在に与える影響についてシンプルにまとめたものです(ともにご登壇くださった、木村武史先生(筑波大学)、久木田水生先生(名古屋大学)、中村俊先生((株)コルラボ)、ありがとうございました)。

 また、翌日はワークショップにて「ポストヒューマン時代」をめぐる哲学/思想的諸問題について――「無用者階級」、「脳人間」、〈自己完結社会〉、〈無限の生〉の「世界観=人間観などの視点を中心に」という形で、この問題をこの間新著にまとめてきた論点と絡ませる形で報告させていただきました(コメンテーターを担ってくださった、熊坂元大先生(徳島大学)、竹中信介先生(道徳科学研究所)、亀山純生先生(東京農工大学名誉教授)、ありがとうございました)。

 上記のリンク先に、図を除いたPPのスライドをご覧いただけるようにしましたので、興味のある方は覗いてみて下さい。


ポストヒューマン時代についての論考

 あわせてシンポジウムに先立ち、このあたりの問題意識を大雑把にまとめた論考「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い『総合人間学』、総合人間学会、第16号、 pp.162-190)も発表されました。新著の導入にもなる論文だと思いますので、こちらもぜひご参照ください。

 「「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い」

 1.はじめに
 2.「ポストヒューマン時代」のリアリティ

  (1)現代科学技術がもたらすもの
  (2)「ポストヒューマン時代」をどう評価するのか
 3.〈自己完結社会〉への目なざし
  (1)「持続可能」で、〈自己完結〉した社会の成立へ
  (2)「ポストヒューマン時代」のどこに矛盾が存在するのか
 4.「世界観=人間観」への着目
  (1)〈無限の生〉の「世界観=人間観」
  (2)〈無限の生〉の「無間地獄」
  (3)”個人化”される〈無限の生〉
  (4)「脳人間」の世界
 5.おわりに――〈有限の生〉の「世界観=人間観」を考える

 以下、冒頭の部分について転載しておきます。

 ビッグデータ、AI、ロボット、生命操作などの進展を通じて、われわれはいまや、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となっていく時代を生きている。それは、これまで自明とされてきた「人間」の概念が通用しなくなる時代という意味において、「ポストヒューマン時代」と呼ぶことができるだろう。そして総合人間学の中心的な問いが、まさしく「人間存在の本質とは何か」というものであるとするなら、この時代の局面をどのように理解し、どのように意味づけるのかということは、総合人間学においても避けて通ることができない重要な課題となるはずである。

 本論では、まず前述した諸々の「ポストヒューマン時代」の科学技術について、具体的に見ていくことからはじめよう。そしてその技術的現実が、われわれをいかなる世界へと向かわせつつあるのかについて、R・カーツワイル(R. Kurzweil)やY・ハラリ(Y. Harari)の分析を交えつつ、さらには独自に〈自己完結社会〉というキーワードを用いて考察することにしたい。〈自己完結社会〉とは、人々が高度に発達した社会システムに深く依存することによって、生身の他者と関わっていく必然性、生身の身体とともに生きる必然性を失っていく社会のことを指している。

 確かに「ポストヒューマン時代」の到来は、しばしば「人間疎外」や「管理社会」といった枠組みの延長線上で語られることが多いだろう。しかし事態は、それほど単純なものとは言い難い。この問題の難しさは、その矛盾の本質が、自由、平等、多文化共生をはじめ、われわれがこれまで希求してきた人間的理想と密接に関わっていることにある。端的に述べれば、われわれが信じる「あるべき人間(社会)」の理念に即すと、「ポストヒューマン化」は批判の対象になるどころか、その理想を実現するためにこそ、われわれは「ポストヒューマンな存在」になるべきだ、との主張が導かれうるからである。

 議論の後半では、こうした矛盾がなぜ生じるのかについて、われわれの認識や思考の背後にあって、それを加速させている〈無限の生〉の「世界観=人間観」というものから読み解いてみたい。〈無限の生〉とは、「意のままになる生」のことを指し、その「世界観=人間観」のもとでは、人間の使命とは、「意のままにならない生」の現実を克服し、それをあるべき理念に相応しい形に改変していくことであると理解される。そしてそこでは、その理想の形式が“現実否定”に基づくゆえに、ある種の「無間地獄」をもたらす様子について見ていこう。注目すべきは、今日においては、それが「あるべきこの私の生」と「現実のこの私の生」をめぐる矛盾となって現れているということである。ここから本論では、われわれが新時代の社会システムや科学技術を通じて「意のままにならない身体」や「意のままにならない他者」から解放されるほどに、かえって苦しみを深めていくメカニズムについて見ていくことにしよう。

 〈無限の生〉がもたらす理想の矛盾は、おそらくわれわれが身体を完全に捨て去った「脳人間」になるか、あるいは脳さえ捨て去った「思念体」になるまで続くだろう。その究極の“ユートピア”においては、人間存在の「自己決定」と「自己実現」は、かつてない水準へと上昇する。われわれはそこで、理念が指し示す「完全な人間」に到達するのである。しかしそこには、人間など、もうどこにも存在していない。このことは何を意味するのだろうか。本論では、順を追って説明していくことにしよう。

       

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『〈自己完結社会〉の成立』に最初のAmazonレビューが掲載されました

  拙著である『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み』のAmazon商品ページに、はじめてレビューがつきました。eulerさん、ありがとうございました!

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『鬼滅の刃』に見る、〈救い〉と〈信頼〉の物語」

 少し異色かもしれませんが、先日『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴、集英社)をテーマにしたエッセイを書き、掲載されました(リンク先の上から3番目の記事です。記事への直リンクはこちら。)。

 実は、私がこの作品を本当の意味で知ったのは、世間の認知よりもだいぶ遅れて、2021年の夏頃、『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』のテレビ放送を機に、これまで放送されたアニメ版(立志編)が一気に再放送されたときでした。

 作品の名前と世間の人気は知っていましたが、ネットをはじめ、とにかくプロモーションが目についたことから、当初は警戒し、あくまで現代文化の研究の一環として視聴することになりました。しかし結果的に、この作品の人気が本物であると実感することになったのです[1]

 細かくはエッセイに書いたのですが、この作品が魅力的なのは、単なる漫画作品としての魅力を超えて、作品の背景にある“人間が生きること”の本質に関わる思想や世界観、そしてメッセージが視聴する人々の心を打つからだと感じています。加えてそれは、きわめて同時代的な側面もあって、文化論的にも意味がある作品だったと感じています[2]。

 もちろん、全員にこの作品のメッセージが刺さるわけではないかもしれません。というより、私が個人的に、作者の思想や世界観に共鳴する人間であった、という側面も強いのかもしれません。なぜなら、私の新著を知っている方は尚更だと思いますが、この作品の主題やメッセージと、私が10年かけて、〈役割〉、〈信頼〉、〈許し〉、〈救い〉、〈美〉、そして〈存在の連なり〉という概念を使って表現しようとしてきたものが、多くの部分で重なるところがあるからです[3]

 エッセイでは、作中に出てくるキーワードや台詞をコラージュさせつつ、私が特に重要だと思う論点を、私の〈思想〉や「世界観=人間観」とシンクロさせながら書いています。文中で「」書きになっていないものでも、作品のキーワードや台詞が隠れていますので、作品を好きな方は、ぜひ探してみて下さい[4]

 いずれにしても、『鬼滅の刃』は本当に良い作品なので、多くの方にその魅力を知って欲しいと思います。最後に、この作品を世に出してくださった吾峠先生に、改めて感謝を申し上げたいと思います。


[1] 実を言うと、テレビ再放送で、たまたまその時間に放送されていた数話分を視聴したものの、その時には、戦闘シーンが中心の回だったためか、作品の魅力に気づくには至りませんでした。しかしその後、ストリーミングで第1話からちゃんと視聴してみようという気になり、「最終選別」まで視聴した段階で「これは!」と思い、「立志編」をすべて視聴して、この作品の本質にようやく気づくことができました。その後原作のコミックを揃えてすべて読みました。この作品を数話だけ視聴して、評価をするのはおすすめできません。私が「立志編」のなかで忘れられないのは、累の着物を踏みつけた冨岡に、炭治郎が「足をどけてください」と言うシーン(コミック第5巻185頁)です。ここで何か刺さるものがある方は、本作品を最後まで読んでみることをおすすめします。必ず読んで良かったと思うはずです。

[2] このあたりもいつかちゃんと書いてみたいですが、私が持った感想の一つは、この作品が文化論でいうところの「セカイ系」や「決断主義」を超えるものとして位置づけられるのでは、ということでした。実は同じタイミングで、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』も視聴していたのですが、そのコントラストもあったと思います。

[3] エッセイでは、字数制限のために取り入れられませんでしたが、本当は〈役割〉や〈許し〉や〈存在の連なり〉といった概念を引き合いに出して書いてみたいこともありました。

[4] 作品を意識したワードにすべて「」を入れてしまうと、「」だらけになって読みにくいため、特に引用として強調したいものを選んで「」書きとしています。

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単著が完成しました

 構想で5年、執筆で5年、およそ10年近くかかった単著が、この度ようやく完成致しました。刊行をお約束していた方々には、大変遅くなりましたが、こうして無事に完了のご報告ができることを心より嬉しく思っております。

 本書が完成に至るまでには、本当にいろいろなことがございました。本書は私が人生の道程で出会い、そのご縁のなかでいただいた多くのものに支えられることではじめて結実することができたものです。そのご縁のひとつひとつに思いを馳せながら、ここで改めて感謝を申し上げたいと思います。

 上柿崇英(2021)『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(上巻)』 農林統計出版

  • はじめに
  • 序論――本書の構成と主要概念について

  • 第1部 時代と人間への問い――〈自己完結社会〉への目なざし
  • 第1章 「理念なき時代」における”時代性”
  • 第2章 人間学の”亡霊”と〈自立した個人〉のイデオロギー

  • 第2部 「人間的〈環境〉」の分析と人類史における連続性/非連続性
  • 第2部のための序
  • 第3章 人間存在と〈環境〉
  • 第4章 人類史的観点における「人間的〈環境〉」の構造転換

  • 第3部 「人間的〈生〉」の分析と〈社会的装置〉
  • 第3部のための序
  • 第5章 「人間的〈生〉」の分析と「〈生〉の三契機」
  • 第6章 〈生〉を変容させる〈社会的装置〉とは何か考

  • 第4部 「人間的〈関係性〉」の分析と〈共同〉の条件
  • 第4部のための序
  • 第7章 〈関係性〉の人間学
  • 第8章 〈共同〉の条件とその人間学的基盤

  •  上柿崇英(2021)『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(下巻)』 農林統計出版

  • 第5部 〈有限の生〉と〈無限の生〉
  • 第5部のための序
  • 第9章 〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換
  • 第10章 最終考察――人間の未来と〈有限の生〉

  • 補論1 残された課題としての〈文化〉への問い
  • 補論2 学術的論点のための五つの考察

  • おわりに
  • 付録

  • カテゴリー: 〈自己完結社会〉の成立, 本の紹介, 研究・学問 | 単著が完成しました はコメントを受け付けていません

    夢ナビ

    高校生向けの情報サイト「夢ナビ」に私の研究室の紹介が出ています。本当は講義を行う予定だったのですが、コロナウイルスの状況によりイベントは中止となりました。

    なお、リンク先のイラストは「夢ナビ」さんの方でご用意されたものなのですが、私であれば、おそらく絶対に口にしないだろう台詞を「地球さん」が語ってくれています(笑)。

    カテゴリー: 日常生活 | 夢ナビ はコメントを受け付けていません

    『現代人間学・人間存在論研究』第四号

    ご無沙汰しております。この度は、ようやく二年越しの『第四号』を刊行することができました。

    詳しいことは、「『現代人間学・人間存在論研究』第一期を終えるにあたって』」にも書いたのですが、『第四号』は、仲間たちとこのプロジェクトを始めてきて、「第一期」の締めにあたる大事な号でした。

    口先だけで何かをいっているだけで許されたのは20代まで、それをちゃんとした形にするのが30代の仕事と誓い合い、10年かけて取り組んできたプロジェクトが、ついに一つのひとつの区切りを迎えました。

    当初の目論みでは、実質的な執筆は『第三号』までで、『第四号』は総括的な位置づけとなっていたのですが、結果、まったくそんなことはなくて、「第一期」の締めに相応しい、非常に内容の濃い、実りあるものになったと思います。

    私も、そして一緒に闘ってきた仲間たちも、このプロジェクトを始めた当初には、その先に今回書いたような到達点が想定されていたわけではありません。これは5年あまりの執筆期間の間にそれぞれが必死に格闘してきた結果であって、同時に私たちは、それぞれにはっきりとした自らの思想的立ち位置を完成させたと思います。

    私の場合でいうなら

    • ①哲学的方法論としての「現代人間学」の整備、
    • ②西洋近代哲学に含まれる根源的な問題としての「存在論的自由」〈無限の生〉をめぐる考察、
    • 〈自己完結社会〉への分析や批判の先にあるものとしての〈有限の生〉の「世界観=人間観」の提示、
    • 〈世界了解〉の概念を媒介とした〈思想〉〈哲学〉〈芸術〉〈救い〉〈美〉といった人間存在の根源に関わる営為に対する一貫した説明、

    などだと思います。

    デジタル技術や生命操作技術がもたらす人間存在の揺らぎや、〈自立した個人〉を中心とした人間的理想の行き詰まりから始め、700万年に及ぶ人類史、「人間的な生」の根源、「人間的な関係性」の根源にまで踏み込み、人間の未来を見据えたひとつの「世界観=人間観」を提示すること、しかもそれを単なる海外の文献の「お勉強」としてではなく、時代を生きる一人の人間の〈思想〉として完成させること。

    内容に共感してもらえるかどうかは別として、ここまで書けることができて、本当に良かったと思います。

    『現代人間学・人間存在論研究』 第一期 第四号
    特集 存在の波止場

    • 『現代人間学・人間存在論研究』発刊によせて
    • 『現代人間学・人間存在論研究』第四号のための序(上柿崇英/増田敬祐)
    • 人〈生活世界〉の構造転換と〈自己完結社会〉の未来―〈無限の生〉と〈有限の生〉をめぐる人間学的考察(上柿崇英)
    • 存在の耐えきれない重さ―環境における他律の危機について(増田敬祐)
    • 波打ち際の大聖堂―計算に引き寄せられる世界のメディア論(吉田健彦)
    • 『現代人間学・人間存在論研究』第一期を終えるにあたって(上柿崇英)

    唯一残念なのは、40歳になるまでに、この成果を単著として刊行するところまではいけなかったことでしょうか。三人で単著を書いて、それらをシリーズ本として出版するという当初の目標は、残念ながら実現することは困難なようです。しかしそれぞれの形で単著計画自体は進んでいますので、これが終わって、ようやく本当の意味で「第一期」を終えることができるでしょう。

    末永くお見守りください。

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