先日のゼミで『〈自己完結社会〉の成立』の第8章「〈共同〉の条件とその人間学的基盤」から、「共同のための作法や知恵」について扱いました。
ここでは、人間存在が他者とともに何かを作り上げていく「共同行為」を念頭に、負担を伴う〈共同〉をどのように受け入れ実践してきたのかということが焦点となります。
まず私が、このあたりの内容を書くときに意識していたのは、
- ①「自立した個人」を含む西洋近代世界が理想としてきた人間像とは異なる人間像を描くことを目指す。
- ②濃密な〈共同〉を実践しなければならなかった時代の人々が、どのような心構えや価値観を通じて〈共同〉に向き合おうとしてきたのかを、思考実験を交えながら“知恵”として抽出すること。
- ③現代の私たちに繋がる人々が大切にしてきた価値観や人間観を描き、言語化すること。
という3点で、ここに友人である増田敬祐さんの影響と、自分自身の経験がありました。
私はもともとサブカル的なものに興味がある人間ですので、映画、ドラマ、小説だけでなく漫画、アニメ、ゲーム、ネット空間における言説など、③を検討するためには、いろいろな作品に描かれる人間観を参照してきました。
(ただ、作品を観たり読んだりする時間が余り取れないため、個別的なジャンルにフォーカスするとなると、把握している作品はそれほど多いとは言えません)
こうした意味では、執筆当時、決して「少年漫画」を突出して意識したわけではなかったのですが、いまから結果的に読み直してみると、「少年漫画」で繰り返し描かれてきた主題と多くの接点があることに自分でも気づかされます。
実際、この本を刊行してすぐ『鬼滅の刃』と出会いましたが、ここにも多くの接点があり、このことを一度エッセイで書いたことがあります。
上柿崇英(2022d)「『鬼滅の刃』に見る、〈救い〉と〈信頼〉の物語」「『鬼滅の刃』に見る、〈救い〉と〈信頼〉の物語」『ニューサポート高校「国語」』、vol.37(2022年春号)、東京書籍)
以上のことから興味深い論点が二つ導出されます。
ひとつ目は、現在、事実として「少年漫画」に描かれている価値観や人間像と、②に関する、過去の時代に〈共同〉と日々向き合ってきた人々の価値観や人間像を、例えば民俗学の知見などを深めたうえで、改めて比較したときに何が見えるのかということです。
執筆時、私はこのことを意識していませんでした。そこには本当に連続性があるのか? あるいは実は連続性はほとんどなかったりするのか?
もしも前者なら、私の試みはズレていなかったとうことになりますが、もしも後者なら、私たちに馴染みの価値観や人間像は、比較的最近の特定の時代に形作られたものだということになります。このことは、一度ちゃんと考えてみる必要があると思います。
ふたつ目は、これも事実として「少年漫画」が海外でも非常に人気があるということをどのように理解するのかというものです。
前述のように、この本で書かれている価値観や人間像は、①自立した個人(西洋近代思想)とは対立するものです。そしてこの本の内容と「少年漫画」に多くの接点があるとするなら、①自立した個人(西洋近代思想)と「少年漫画」は、論理的に言って、対立することになるはずです。
そうすると、西洋世界の人々が「少年漫画」に共感するときに、そこで描かれる主題や価値観、人間像は、①自立した個人(西洋近代思想)と相容れないし、さらに言えば現在の多様性や自己決定などとも矛盾することになる可能性が高いのですが、このことをどのように理解しているのかということです。
可能性の一つは、西洋世界の人々がその矛盾に気づいていないというものです。もしそうなら、「共同のための作法や知恵」として論じてきた価値観、人間観は、①自立した個人(西洋近代思想)を問いなおしていく契機として有用だということになると思います。
もうひとつの可能性は、西洋世界の人々が「少年漫画」に共感するときに、実は本来の価値観や人間像を、①自立した個人(西洋近代思想)とは矛盾しない別のロジックで理解(誤認)しており、結果的に矛盾が成立していないということです。
西洋世界では①自立した個人(西洋近代思想)より深い部分で、キリスト教由来の「隣人愛」がセットになっていますので、例えば〈自立した個人〉+「隣人愛」で解釈されている、ということが考えられます。
このあたりのことについても、機会を見つけて掘り下げて考えてみたいところです。




