【論文】環境思想の過去と未来――“生活”と“自治”への夢と来たるべき環境加速主義の時代について

 環境加速主義(environmental accelerationism)についての論文第三弾を書きました。某学会のシンポジウム論文なのですが、分量を減らせと言われてしまうかもしれませんので、noteの方に調整前の完成稿を載せておきたいと思います

 この間、環境加速主義については、二つの論文を書いてきました。第一弾は丸善出版から刊行された『環境と資源・エネルギーの哲学「人類社会と環境の未来――「地球1個分」問題と環境加速主義の時代」で、ここでは環境加速主義の基本的な論点について取りあげ、特に「グリーン成長主義」や「脱成長主義」と環境加速主義がどのように異なるのかという点を強調しました。

上柿崇英(2024b)「【第1章】人類社会と環境の未来――「地球1個分」問題と環境加速主義の時代」『環境と資源・エネルギーの哲学(未来世界を哲学する【第1巻】)』水野友晴責任編集、丸善出版、pp. 1-44

 続いて第二弾の「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」(投稿論文)では、いわゆる現代思想における加速主義(accelerationism)に焦点をあて、環境加速主義における「加速主義」の意味合いについて検討しました。

上柿崇英(2025b)「加速主義の環境論的転回――“環境加速主義”はいかなる点において加速主義的なのか」『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、Vol.19、No.1号、pp. 94-118

 以上を踏まえての今回の第三弾ですが、ここでは「エコ・ユートピア」の衰退から環境加速主義へと向かう環境思想の変遷を念頭に、とりわけ日本の環境思想が何を目指し、何に挫折してきたのかということにひとつの焦点をあててきました。 

 この問題意識は、先日『環境思想入門』への書評で書いたこととも関係するのですが、欧米で成立した環境思想に対して、日本社会ではそれを独自の形で批判的に受け入れ、独自の問題意識を共有しながら展開されてきた経緯がありました。欧米の理論や言説をただ輸入するのではなく、日本の環境思想と呼べるものが確かにそこにあったのです。

 以下、このあたりの要点についてまとめておきたいと思います。

 まず、半世紀にわたって環境思想の中心にあったのは、いかにして私たちが環境危機を克服した「もうひとつの世界」に到達できるのか、という問題意識でした。ここでの「もうひとつの世界」とは、環境問題を決して引き起こすことのない、現在のあり方とは異なるまったく新しい社会の形のことを指しています。

 そしてこの「もうひとつの世界」をめぐっては、人々の間である種の具体的なイメージが共有されていました。それが、本論が「エコ・ユートピア」の想像力と呼んでいるものです。少し長いのですが、引用します。

 「・・・・・・そうしたなかで、人々の間には、次第に「もうひとつの世界」を想起させる緩やかなイメージが共有されるようになっていった。例えばそれはローカルな土地に根ざした地産地消のコミュニティを基盤とする社会かもしれない。そして省エネや省資源、労苦を軽減する技術などは活用したうえで、人々の豊かさの基準を、スピードや効率、モノの所有や消費、貨幣的なサービスの享受ではなく、精神的なもの、例えば自然とのふれあい、健康的でやりがいのある労働、地域社会における相互扶助 (ケア) 、レクリエーション、創造的な活動といったものに置くような社会かもしれない。・・・・・・」

 「・・・・・・そうした社会は、確かに利便性では今日の社会に劣るだろう。しかしスピードや競争にまみれた現在のライフスタイルを思えば、それよりはるかに人間らしく、人々を幸福にするとも言える。ひとつひとつの実践は心許ないかもしれないが、それらはやがて訪れるはずの大いなる変革のための確かな一歩として連なっていくのである――人々を動かしていたのは、こうした「もうひとつの世界」への確かな想像力であった。本論では、こうしたイメージのことを「エコ・ユートピア」の想像力と呼ぶことにしよう。

 環境主義やエコロジー思想が全盛期だった時代においては、「環境について考える」ことは、単に個別的な問題を解決するということを意味せず、それを超えて「もうひとつの世界」=「エコ・ユートピア」について考えることを意味していました。

 またゴミの分別だろうと、再生可能エネルギーの推進だろうと、「環境問題と向き合う」ことは、たとえ些細な行動であったとしても、それはいつの日か「もうひとつの世界」=「エコ・ユートピア」へと至るための確かな一歩である、という形で理解されていました。
 環境対策を個人で進めることには、多くの手間やストレスがかかりますが、このような手応えを漠然と感じていたからこそ、それが人々のモチベーションになってきたとも言えるでしょう。

 注目したいのは、「エコ・ユートピア」についてのイメージは、欧米社会でも日本社会でも概ね共有されていたということです。しかし前述したように、日本社会は欧米由来の環境思想に対して、独自の形で応答してきた歴史が存在します。

 では、どこが違ったのでしょうか?

 まず欧米の環境思想は、こうした「エコ・ユートピア」の実現を、分離してしまった人間(人類)と環境(自然)の「和解」という文脈で捉えていました。
 つまり、もともと人間は、自然環境と調和して生きていたものの、何かの要因によって人間が、自然環境から逸脱してしまい、それが環境問題の根本原因にある(人間中心主義)、したがって「もうひとつの世界」=「エコ・ユートピア」の実現とは、この乖離してしまった人間を自然環境と再び調和させることを意味する、という理解の仕方です。
 そしてその際に、特に重視されたのが、環境(自然)を主として人間の脅威から保護したり、それをあるべき原生の状態のまま保存したりすることで共生を図るという方向性でした。

 これに対して日本の環境思想は、「エコ・ユートピア」の実現を、「生活」を取りもどし「自治」を取りもどすという文脈で捉えていました。

 もともと人間は、生身の姿で自然に直接関わり、みずから生活世界を築きあげてきました。豊かな自然を土台にして、そこに豊かな「助け合い」人間関係が築かれます。そしてその「豊かな自然」と「豊かな人間関係」のもとで、環境(自然)に対する畏敬や適切な資源管理が行われ、環境(自然)と調和した社会が築かれていました。

 しかし近代に入り、とりわけ工業化と現代的なライフスタイルの普及が進んでいくと、「豊かな自然」が破壊されると同時に、「豊かな人間関係」もまた破壊されていきました。それによって人間と環境(自然)自体が持っていた豊かな関わりの全体性が分断されていき、それが環境危機の根本原因となっている。
 ここまでは欧米の環境思想と似ているかもしれません。しかしここから若干ニュアンスが変わってきます。

 したがって「もうひとつの世界」=「エコ・ユートピア」の実現とは、第一に、解体された「豊かな自然」と「豊かな人間関係」を新たな形で回復させること、人間(人類)と環境(自然)自体が持っていた豊かな関わりの全体性、すなわち生活世界(=「生活」)を新たな形で取りもどすということを意味している。
 そして第二に、近代化のなかでバラバラになってしまった諸個人が連帯し、行政(国家)や企業(市場経済)とは異なる形で、自らの力によってそうした生活世界を再生産していくあり方(=「自治」)を取りもどしていくということを意味する、といったようにです。


 環境加速主義は、人間社会を環境(自然)に合わせるのではなく、科学技術の力によって環境(自然)を人間社会に合わせていく思想のことを指しますが、環境加速主義は、こうした「エコ・ユートピア」の想像力が衰退し、人々を動かす力を失うことによって台頭してきます。

 注目したいのは、こうした「エコ・ユートピア」の衰退という局面についても、欧米の環境思想と日本の環境思想では、先の文脈の違いから、やや異なる展開をたどったということです。

 例えば「正しい自然保護や、人間の手が入っていない原生自然など厳密には存在していない」「結局人間はどこかで人間中心に生きるしかない」という言説が存在するとき、「人間中心主義の克服」を大義としてきた欧米の環境思想は根幹から揺らいでしまうことになります。

 しかし「生活」を取りもどし「自治」を取りもどすことを大義としてきた日本の環境思想にとっては、たとえこうした言説が出てきたとしても、議論の本質はそこではないため、まったく揺らぐことはありません。

 それでも日本の環境思想には、やはりそれ相応の弱点がありました。それは一言で言ってしまうと、「生活」を取りもどし「自治」を取りもどすというメインテーマが、現代人にとっては別の意味においてハードルが高すぎたということです。

 「・・・・・・確かにこの四半世紀もの間、日本社会においても、事実として、志ある人々によって多くの草の根の実践が積み重ねられてきた (24) 。しかし圧倒的多数の人々にとっては、「自然とのふれあい」も、「コミュニティでの交流」も、遠くから想像して楽しむもの、あるいは日常から離れて一時的な癒しを得るためのものでしかなかった。」

 「社会システムへの依存によって自己完結的な暮らしに慣れ、“自分だけの世界”の勝手気ままさを知ってしまった人々にとって、“生活”や“自治”の理念はあまりに高尚であり、あまりに重たいものであった。そして何より、それをいざ実践しようとも、そのために不可欠となる“共同”を実現するための人間的素養の数々を、人々はすでに枯渇させてしまっていたのである (25) 。」

 こうして欧米の環境思想とは異なる文脈において、やはり日本の環境思想も衰退していくことになります。そして環境加速主義が台頭する時代を迎える・・・ということになるのですが、細かい部分は本文に譲るとして、ここで強調しておきたいのは次の点です。

 まず、環境思想の根幹にあったのは、現代社会における人間の生き方/あり方をめぐって本質的に問うという姿勢であったということ、そしてそこには欧米のやり方に追従せず、この国で培われてきた独自の感性をもとに、独自の環境思想を探究してきた歴史があったということです。

 前述した『環境思想入門』の書評でも、筆者が不満を述べたのは、まさしくこうした日本の環境思想の奮闘を、環境思想関連で研究している人々自身が自覚していない部分があったからです。

 「生活」を取りもどし「自治」を取りもどすという主題は、確かにもう現代の人々の心には響かないかもしれない。それでも「環境とは何か?」「人間とは何か?」「環境問題に向き合うとはどういうことか?」といった本質的な問いと向き合い、一つの答えを出そうとした人々の格闘の歴史は、次世代が新たな思想を求めて格闘する際の確かな手向けとなる。私はそう考えています。

 もちろんプラグマティズムやまちづくりや、合意形成でも良いのです。しかし、そこに「人間や環境についての本質的な問いかけ」が欠けているのであれば、それは「公共政策」や「住民参加型イベント」に過ぎず、それを環境思想と呼ぶ必然性などないでしょう。

 だからこそ、いまでも忘れられないのは、ライトとカッツの『環境プラグマティズム』がはじめて訳出されたとき、その解説のなかで日本の環境思想(環境哲学)が「2週遅れ」の状態にあると述べていると述べられていたことです。
 言うまでもなく、『環境プラグマティズム』自体は、90年代に刊行された優れた思想の書物です。そうではなくて、そこから安易に「2週遅れ」と言ってのけてしまう、日本の学術界に対して私は情けなく思うのです。彼らは何を見ているのだろうか?――と。

 環境加速主義については、もう散々書きましたし、もうこれ以上書くことはありません。
 その意味では、今回書いたラフスケッチを元に、これから日本の環境思想についてもう少し掘り下げて考えてみたいとも思います。ただそれは、単に「○○という思想があった」というものではなくて、ある時代に、ある人々が、何を感じ、何に希望を託そうとしたのか、そしてそれがいかなる形で時代に置き去りにされ、挫折していくのか、という全体像を描かなければならないでしょう。
 

 そして最後にもうひとつ。「エコ・ユートピア」の衰退、といったテーマでお話しすると、どうしても「だから理想を語りすぎるのは良くないのだ」「だから具体的で個別的な問題に目を向けて、臨機応変に考えなければならない」という反応になりがちなのですが、筆者が伝えようとしているのはそうしたメッセージではないということです。
 (むしろその結果が、環境加速主義という「賭け」へと私たちを誘っているということを繰り返し書いてきました)

 言説には、「ビジョンの射程」というものが存在します。つまり、直ちに何をすべきかという射程を「短期的なビジョン」、「短期的なビジョン」が行き当たりばったりにならないよう、数10年先を見越した行動計画となるものを「中期的ビジョン」と呼ぶとするなら、われわれが本質的にいかなる世界を望むのかということを語るのが「長期的なビジョン」と呼べるものです。

 そして思想とは、この「長期的なビジョン」に相当するものであること、また「短期的なビジョン」「中期的なビジョン」「長期的なビジョン」のどれかだけが重要であるということではなく、このどれもが充実している状態こそが言説が最も健全な状態であるということです。

 つまりそもそも思想には、常に現実から離れ、時代に置き去りにされていく弱点があるということ、それでもその弱点を引き受けつつ、私たちは思想を生みだす努力を続けていくしかない。そのことを私は述べたいと思っているのです。

 「・・・・・・そしてそうした“強度のある思想”を求めた先に、もしかするとわれわれは、現代人が単純に想起する意味での自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念では掬いきれない人間的な価値の地平を再び見いだすことができるようになるかもしれない。
 いずれにせよ、環境思想というものに未だ存在意義が残されているとするなら、われわれにできることは、そうしたイデオロギーを絶えず創出していく以外にはないのである。」

以下、目次を掲載しておきます。

環境思想の過去と未来――“生活”と“自治”への夢と来たるべき環境加速主義の時代について

1.はじめに
2.環境思想の誕生と、その日本での受容について
 (1) 環境思想とは何か――環境問題という“思想”について
 (2) 環境主義からエコロジー思想へ――「エコ・ユートピア」の成立
 (3) 環境思想の日本における受容――“生活”と“自治”への夢

3.環境加速主義への道
 (1) 環境思想の終焉
 (2) 環境加速主義の登場
 (3) 環境加速主義の諸特徴
 (4) 環境加速主義という“賭け”
4.おわりに

 以下、冒頭の部分も引用しておきます。

 かつて環境について語ることは、思想について語ることであった。例えばわれわれが自然保護について語るとき、問われていたのは単なる環境の破壊それ自体ではなく、われわれ自身の自然や生命に対する本質的な向きあい方であった。
 同様に、環境問題について考えるということは、単なる個別的な問題の解決ではなく、われわれが再び環境危機を引き起こさないためにはいかなる社会が必要なのか、すなわちわれわれがいかにして現在とは異なる「もうひとつの世界」へ至ることができるのかについて考えることを意味していたのである。

 だが、こうした前提はすでに過去のものになっている。実際、SDGsで語られているのは、先進国が享受してきた経済成長や権利保障の恩恵を限りなく全世界に拡張していくことではないだろうか。あるいは気候変動やプラスチック、メガソーラーなどについてわれわれが語るとき、その目線はどこまでも眼前の課題を解消することに置かれている。
 今日環境について考えるということは、いかにして“現在”を持続/延長させることができるのか、そしてそのための障壁をいかにして除去することができるのかを考えることを意味するようになっているのである。

 本論が問いたいのは、こうした世界観において、環境思想がなお存在する余地は残されているのか、そして残されているとするなら、それはいかなるものになりえるのかということである。すなわち思想なき環境の時代における環境思想の立ち位置とはいかなるものになるのか、そのことについて考察するのが本論の目的である。

 本論ではまず、そもそも“環境思想”とは何だったのかというところから始めよう。そしてその思想が提起してきた問題の所在について振り返り、続いてそれが日本社会にいかなる形で受容されてきたのかについても確認していく。
 そして環境思想の核心が「エコ・ユートピア」とも言うべき「もうひとつの世界」についての想像力にあったということを確認しつつ、瓦解したのはまさしくそうした想像力であったことについて見ていく。
 以来われわれは、「エコ・ユートピア」に代わりうる新たな世界観や物語を、ついに見いだすことができずにいる。そして注目したいのは、こうした思想的な間礫を埋めるような形で、環境加速主義 (environmental accelerationism) とも言うべき新たな潮流が台頭してくる可能性についてである。
 環境加速主義とは、現在の社会経済システムを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を操作、管理、制御し、それによって「地球1個分」という自然環境の限界を超克していこうとする思想のことを指す。われわれは、それこそが21世紀に相応しい新たな環境思想の形であると考えて良いのだろうか。そしてそうではないとするなら、われわれに残された道はどこにあると言えるのだろうか。本論が明らかにしたいのはこうした問題である。

カテゴリー: 環境哲学, 研究・学問 パーマリンク