先日こちらでもご紹介しました、某学会の「ポストヒューマン」についての用語説明についての記事ですが、一度ボツになりましたので、内容を発展させて論文にしました(今年中に正式公開される予定です)。
論文の大枠としては、ポストヒューマン(posthuman)という用語で語られる問題領域をマッピングするということが主眼となるのですが、上記の解説でも書きましたように、どうもこのあたりの界隈では、ポストヒューマニズム――近代的主体/ヒューマニズムの超克を意図する――目線のポストヒューマン論が肥大化しており、もうひとつの源流となるトランスヒューマニズム――生物学的なヒトの意図的な超克を目指す――目線のポストヒューマン論が軽視される傾向にありまして、両者をしっかりとフォローしたマッピングをしたいと考えておりました。
ここでの整理がどれだけ有効なのかは、まだまだ議論の余地があるかもしれませんが、ポストヒューマン概念は、この先も時代を論じるキーワードとして有用だと思いますので、ここを突破口として更なる議論の展開があることを望んでいます。
また、本論の最後では、この間論じてきた〈ヒューマニズム〉についても言及しています。
私が括弧付きで〈ヒューマニズム〉と呼んでいるのは、いわゆる人道主義でも、ポスト・ヒューマニズムが批判しようとしている近代的主体とも異なる、より西洋文明のより根源にある次のようなものです。
「だが本論が着目したいのは,西洋世界において400年あまりにわたって貫かれてきたひとつの世界観についてである。そしてそこには,人間についてのある強力な信念が含まれていた。すなわち人間は,とりわけ理性の力を通じて,さまざまな拘束から自分自身を解放することができる。そして人間の使命とは,そうした力を駆使することで,理念として構想された「あるべき何ものか」をこの地上に具現化していくことにあるとする強力な信念に他ならない。」
トランスヒューマニズムを突き動かしているのが、こうした信念であることは想像しやすいでしょうが、問題は、”ヒューマニズム”を批判しているところのポスト・ヒューマニズムもまた、より深いレベルにおいては、この〈ヒューマニズム〉を共有しているということです。
この問題は、筆者がこれまで繰り返し論じてきたテーマでもあるのですが、このことは、ポスト・ヒューマニズムに内在するある種の”政治性”を考えてみるとよく分かります。
上柿崇英(2023a)「「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の亡霊――「ポストモダン」/「反ヒューマニズム」状況下における「自己決定する主体」の物語について」【テキスト版PDF】(『総合人間学』、総合人間学会、第17号、 pp.34-63)
ポスト・ヒューマニズムは、「人間/非人間」の境界線を打破しようとしますが、その動機は決して価値中立的なものではありません。明確に、抑圧をもたらす境界線を解体させ、何ものかの「存在論的な自由」を拡大させるという意図に基づいています。
つまり古くは奴隷制の解放にはじまり、今日の自己決定や自己実現、多様性に至る思想的な流れの延長にあって、その根底にあるのは、境界線を打破した先にある「普遍的な人間」(=「あるべき人間」)の実現/への到達です(筆者はその最果てにある何ものかを、身体を捨てて「精神体」(=「思念体」)となった「ニンゲン」と表現してきましたが)。
ポスト・ヒューマニズムは、この論理を拡張して、ついには「人間/非人間」の境界線の打破を試みます。ですがその先にあるのは、自らを規定する一切のものを受けつけず、「存在論的自由」が究極に高まったところにある何ものか、もはや「ニンゲン」ですらない、不定形の、全(すべて)であり虚無でもあるかのごとき奇怪な怪物でしょう。
そしてその到達点は、結局のところ、「あるべき何ものか」を目指して、生物学的なヒトを意図的に超克しようとするトランスヒューマニズムと少しも変わらない――。
「〈ヒューマニズム〉とは,言ってみれば人間存在が自らを規定し,拘束しようとするものから自分自身を絶え間なく解放させていくプロジェクトである。」
この問題こそ、本論の最も重要な問題提起です。そしていま、5年間かけて論じてきた、この〈ヒューマニズム〉についての論説を1冊の本にまとめようとしています。この論文は、そのうちの第1章となるでしょう。

以下、目次を掲載しておきます。
ポストヒューマン論における問題領域の射程とその考察――ポストヒューマニズムとトランスヒューマニズムを繋ぐもの
1.はじめに
2.ポストヒューマン論とは何か
(1)ポストヒューマン論の射程
(2)ポストヒューマン論の源流①――トランスヒューマニズム
(3)ポストヒューマン論の源流②――ポストヒューマニズム
3.ポストヒューマン論における問題領域
(1)ポストヒューマン論の射程を図式化する
(2)【A】「現象/社会的現実としてのポストヒューマン論」
(3)【A-1】「実体としての人間の揺らぎ」
(4)【A-2】「準拠点としての人間の揺らぎ」
(5)【B】「思想としてのポストヒューマン論」
(6)【B-1】「トランスヒューマニズム」
(7)【B-2-1】「ポスト・ヒューマニズム」(post-humanism)
(8)【B-2-2】「ポストヒューマン・イズム」(posthuman-ism)
4.おわりに――ポストヒューマニズムとトランスヒューマニズムを繋ぐもの
以下、冒頭の部分も転載しておきます。
AI、ロボット、サイボーグ、生命操作など、科学技術の急速な進展とともに、その影響は、いまやわれわれ人間存在のあり方そのものを変容させるにいたっている。
こうしたなかで、一連の事態をいかに理解することができるのかということをめぐって、近年注目されているのがポストヒューマン(posthuman)という概念である。ポストヒューマンを直訳するなら「人間以後」となる。つまりここには、われわれがすでに“人間の時代”ではなく、「人間以後」の時代を生きている、という問題提起が含まれているのである。
しかしポストヒューマンとは、いかなる意味において「人間以後」だと言えるのだろうか。またわれわれが「人間以後」の時代へと向かっていくこと、あるいはわれわれ自身が「人間以後」の存在になっていくことの是非については、どのように考えれば良いのだろうか。
こうした論点についてはさまざまな議論の余地がある。そこで本論ではまず、ポストヒューマン論の射程を広く掌握可能なひとつの「見取り図」を提示することを試みたい。
具体的には、まずポストヒューマン論を「現象/社会的現実としてのポストヒューマン論」と「思想としてのポストヒューマン論」に区別する。そして前者を、いかなる意味で「人間以後」なのかという観点から、「(生物学的な)実体としての人間の揺らぎ」と「準拠点としての人間の揺らぎ」に区別し、後者を、「人間以後」の時代とどのように向き合うのかという観点から「トランスヒューマニズム」と「ポストヒューマニズム」に区別する。
そして最後に「ポストヒューマニズム」を、「ポスト・ヒューマニズム」と読むのか、「ポストヒューマン・イズム」と読むのかで大きく論点が異なる点を踏まえたうえで、ポストヒューマン論の全体像を示すことを試みたい。
そして本論では、最後に発展的な論点として、ポストヒューマン論の二つの源流とも言えるポストヒューマニズムとトランスヒューマニズムの接点について改めて考察する。手がかりとなるのは批判的に導入される〈ヒューマニズム〉の概念である。この概念を媒介することによって、両者には看過できない重要な接点が明らかになるということを示したい。




